コロナ禍がこれほどひどくなる前、
萬田久子さんから連絡が来て、
「立木先生の展覧会があるので、
一緒に行きませんか」とのお誘いがあり、
萬田さんと仲良しの神津はづきさんと、
3人で行くことになっていたのです。
ところが、
その後急激に広がり始めた、
コロナの感染拡大ですから、
会場で「何となく会いましょう」という、
ゆるい約束に変更して、
17時頃に「文春ギャラリー」に、
向かいました。
ギャラリーに到着し、
展覧会場に入っていくと、
どこにも告知されてはいなかったのですが、
立木さんを囲んでの、
トークセッションのさなかで、
前の方を見ると、
萬田さんとはづきさんもいました。
この展覧会は、
指揮者であり教育者でもある、
大山平一郎氏が率いる、
若手音楽家の育成に主眼を置く、
音楽家集団(Music Dialogue)の活動を、
立木さんが撮影したものです。

【展覧会場でのトークセッション。
立木さんをはじめとして全員が、
マスク着用です】
立木さんとは、
女性自身の記者を辞めて、
フリーになって最初の仕事となった、
「JJ」のクローズアップインタビューの、
仕事をした時からのおつき合いです。
それまで私は名前を記されることもない、
1取材記者でしたが、
月刊誌になったばかりの「JJ」で、
インタビュー原稿を書かないかと言われ、
この仕事で、初めて、
「文・残間里江子」と、
氏名が誌面に印字されたのです。
記名されたことも嬉しくはありましたが、
それより私の氏名の上に、
「撮影・立木義浩」という名前があり、
立木さんが撮った7頁にわたる写真と、
1頁の私の原稿のあとに、
「撮影・立木義浩 文・残間里江子」と、
掲載されたことの方が大きな喜びでした。
(10代の頃から立木さんの作品を、
見ていましたから、憧れの存在だったのです)
その後、
立木さんの写真集の、
手伝いをさせていただいたりして、
「立木ファミリー」に入れていただき、
私の仕事も数多くやっていただきました。
私が遠藤周作さんが主宰していた、
「劇団 樹座」の団員になって、
(正式に入団試験を受けて入ったのですよ)
「イライザ物語」に出演した時には、
立木さんが私の舞台写真を撮りに来て、
くださったこともありました。
百恵ちゃんの「蒼い時」の、
著者近影も立木さんにお願いしましたし、
その後私が雑誌「Free」の編集長になった時にも、
創刊号のニューヨーク特集の撮影をお願いして、
報酬を度外視して半月以上も、
NYに滞在してくださいました。
この時、一緒に行ってくれたのが、
デビュー間もない萬田久子さんでした。
(20頁余のNY特集の主役になってもらって、
最先端のNYライフを体験してもらったのです)
萬田さんが神津はづきさんと、
初めて会ったのもこの時で、
当時はづきさんはニューヨーク大学に留学中で、
NYでの撮影に参加してくれたのです。
「そう言えば、3人がこうしているのも、
あのNYの取材旅行で、
親しくなったからですよね」と、
はづきさんが言えば、
「あれから40年になるのね。
お互いに色々あったわねぇ」と、
萬田さんも感慨深げに言い、
「立木先生とはNYでも一緒だったけど、
あれから今日まで、
先生は常に新しい領域に挑戦しているし、
あの頃と変わらずカッコいいわよねぇ。
84歳でこんなにカッコいい男性って、
日本にはいないんじゃないかしら。
ほら、見て!先生の足元。素敵な靴よね」と、
男性にはキビシイ審美眼を持っている、
萬田さんならではの感想でした。

【一瞬だけ、マスクを外して。
向かって左から神津はづきさん、
萬田久子さん、立木義浩さん、私】
立木さんの写真展、
皆さんも是非おでかけください。
(今日のけむり)

【玄関のチャイムが鳴ると、
直ぐに隠れるビビリ猫です】
クラブ・ウィルビーのホームページもぜひご覧ください。様々な情報を掲載しています。(ここをクリック)
萬田久子さんから連絡が来て、
「立木先生の展覧会があるので、
一緒に行きませんか」とのお誘いがあり、
萬田さんと仲良しの神津はづきさんと、
3人で行くことになっていたのです。
ところが、
その後急激に広がり始めた、
コロナの感染拡大ですから、
会場で「何となく会いましょう」という、
ゆるい約束に変更して、
17時頃に「文春ギャラリー」に、
向かいました。
ギャラリーに到着し、
展覧会場に入っていくと、
どこにも告知されてはいなかったのですが、
立木さんを囲んでの、
トークセッションのさなかで、
前の方を見ると、
萬田さんとはづきさんもいました。
この展覧会は、
指揮者であり教育者でもある、
大山平一郎氏が率いる、
若手音楽家の育成に主眼を置く、
音楽家集団(Music Dialogue)の活動を、
立木さんが撮影したものです。

【展覧会場でのトークセッション。
立木さんをはじめとして全員が、
マスク着用です】
立木さんとは、
女性自身の記者を辞めて、
フリーになって最初の仕事となった、
「JJ」のクローズアップインタビューの、
仕事をした時からのおつき合いです。
それまで私は名前を記されることもない、
1取材記者でしたが、
月刊誌になったばかりの「JJ」で、
インタビュー原稿を書かないかと言われ、
この仕事で、初めて、
「文・残間里江子」と、
氏名が誌面に印字されたのです。
記名されたことも嬉しくはありましたが、
それより私の氏名の上に、
「撮影・立木義浩」という名前があり、
立木さんが撮った7頁にわたる写真と、
1頁の私の原稿のあとに、
「撮影・立木義浩 文・残間里江子」と、
掲載されたことの方が大きな喜びでした。
(10代の頃から立木さんの作品を、
見ていましたから、憧れの存在だったのです)
その後、
立木さんの写真集の、
手伝いをさせていただいたりして、
「立木ファミリー」に入れていただき、
私の仕事も数多くやっていただきました。
私が遠藤周作さんが主宰していた、
「劇団 樹座」の団員になって、
(正式に入団試験を受けて入ったのですよ)
「イライザ物語」に出演した時には、
立木さんが私の舞台写真を撮りに来て、
くださったこともありました。
百恵ちゃんの「蒼い時」の、
著者近影も立木さんにお願いしましたし、
その後私が雑誌「Free」の編集長になった時にも、
創刊号のニューヨーク特集の撮影をお願いして、
報酬を度外視して半月以上も、
NYに滞在してくださいました。
この時、一緒に行ってくれたのが、
デビュー間もない萬田久子さんでした。
(20頁余のNY特集の主役になってもらって、
最先端のNYライフを体験してもらったのです)
萬田さんが神津はづきさんと、
初めて会ったのもこの時で、
当時はづきさんはニューヨーク大学に留学中で、
NYでの撮影に参加してくれたのです。
「そう言えば、3人がこうしているのも、
あのNYの取材旅行で、
親しくなったからですよね」と、
はづきさんが言えば、
「あれから40年になるのね。
お互いに色々あったわねぇ」と、
萬田さんも感慨深げに言い、
「立木先生とはNYでも一緒だったけど、
あれから今日まで、
先生は常に新しい領域に挑戦しているし、
あの頃と変わらずカッコいいわよねぇ。
84歳でこんなにカッコいい男性って、
日本にはいないんじゃないかしら。
ほら、見て!先生の足元。素敵な靴よね」と、
男性にはキビシイ審美眼を持っている、
萬田さんならではの感想でした。

【一瞬だけ、マスクを外して。
向かって左から神津はづきさん、
萬田久子さん、立木義浩さん、私】
立木さんの写真展、
皆さんも是非おでかけください。
(今日のけむり)

【玄関のチャイムが鳴ると、
直ぐに隠れるビビリ猫です】
