岡さんとは、
岡さんが電通を独立した頃に親しくなり、
私が岡さんの技と人柄に魅かれて、
知人のクライアントに紹介したり、
実際に仕事でご一緒したり、
行きつけのレストランや、
洋服を買うお店が同じだったことなどで、
偶然会ったりもしていました。
一番の縁は、
岡さんも私もブシャール結節だったのですが、
年齢的に私の方が進行が早いので、
「この先どの指がどうなるの?」と、
よく聞いてきました。
私が最もひどい時には左右10本全部に、
痛み止めの注射を打っていたのですが、
岡さんは最初の1本(確か左手の薬指)に、
痛み止めを打った時点で
気絶したという伝説(本当らしいです)のある人でした。
仕事はできるし、
俳優のような面立ちも素敵で、
シニアのアメフットチームでも活躍していて、
女性にはもちろんですが、
若い男子がみな憧れていた人でした。
一昨年冬、
突然電話があって、
「困った時の残間さん頼みなんだけど、
僕に講義をさせてくれる大学はないかな?」と、
聞いて来ました。
それまでの半年間、
岡さんは母校・早稲田大学で、
「日本の広告史と文化論」みたいな、
講義をしていたのですが、
学校側のカリキュラムの都合で、
前期だけで終わってしまったそうで、
せっかく1年分の講義のために、
資料を整えたので、
改めてどこかの大学で、
話をさせて欲しいということでした。
たまたま青山学院大学教授の、
大垣尚司さんの紹介で、
青山学院大学の三木義一学長と、
親しくしていたので、
話をしたところ、
青山学院大学サイドも「是非に」ということで、
2度ほど学校関係者との面談に、
連れて行くなどした結果、
岡さんは昨年春から1年間、
青山学院大学教養課程の正規の授業として、
教壇に立って講義をしていたのです。
今年になって、
「その後どうなったのかしら」と、
気にはなっていたのですが、
初春からコロナ禍となり、
何となく聞きそびれているうちに、
時間が経ってしまいました。
(三木学長の退任が決まっていましたので、
岡さんも1年間の約束で始めたのですが、
学校側は続けて欲しそうでしたから)
随分遅くなりましたが、
思い立って、
先々週の15日に電話をしたら、
「今年になってから体調が良くなくて、
この間まで一ヶ月ほど、
入院していたんだよ」と言うのです。
「岡さんと病気なんて、
まったくイメージが一致しないね。
それで何の病気なの?」と、聞いたところ、
「ごめん、僕、今日これから、
また入院するんだよ。
それで、今入院の支度をしているところなので、
あとでまた連絡するよ。
いずれにしても3週間ぐらいで、
出てくるから」と言って、
電話は切れたのです。
岡さんからはその日長いメールが来て、
体調の変化を感じた日から今に至る経過や、
病名も記されていました。
岡さんの会社から届いた訃報にも、
載っていましたが、
「急性多臓器不全」という病気でした。
岡さんのメールには、
「死因みたいな病名ですが、
これが正式な病名です」と、
ジョークのような文章で説明されていました。
(PCR検査は陰性だったそうで、
蔓延している新型コロナウイルスでは、
なかったのですが、
何らかのウイルス感染によるものだと、
いうことですから、
世の中にはまだまだ、
未知なる怖いウイルスが存在しているのですね)
最後のメールは先週21日で、
この日、岡さんは、
転院した旨を書いてきました。
診てくださっていた若いドクターを、
とても信頼していましたが、
そのドクターの師匠格の先生が、
診てくださるというので、
「希望」を感じながら、
転院したようでした。
4連休の間も気になって、
連絡をしようかと迷いましたが、
岡さんから何か言ってくるまでは、
遠慮していようと思っていたら、
悲しい知らせが届いたのです。
岡さんというクリエーターが、
どんな人だったのかについて、
みなさまに知っていただきたく、
私がかつて、
「club willbe」の HPインタビューで、
岡さんにお話を伺っていますので、
「追悼」の気持ちを込めて、
再掲載させていただくことにしました。
(「club willbe」のHPをご覧ください)
幼少期にお父さんが失踪して、
母子家庭で生活保護を受けながら、
育ったことや、
電通での活躍と電通を辞めた時の話、
「年をとったら山の斜面かどこかに、
仲のいい人たちと固まって住みたい」と、
言っていた話など、
岡さんの魅力がつまっていますので、
ご一読いただけたら、
岡さんも喜んでくださると思います。
クラブ・ウィルビーのホームページもぜひ見てください。様々な情報を更新しています。(ここをクリック)
岡さんが電通を独立した頃に親しくなり、
私が岡さんの技と人柄に魅かれて、
知人のクライアントに紹介したり、
実際に仕事でご一緒したり、
行きつけのレストランや、
洋服を買うお店が同じだったことなどで、
偶然会ったりもしていました。
一番の縁は、
岡さんも私もブシャール結節だったのですが、
年齢的に私の方が進行が早いので、
「この先どの指がどうなるの?」と、
よく聞いてきました。
私が最もひどい時には左右10本全部に、
痛み止めの注射を打っていたのですが、
岡さんは最初の1本(確か左手の薬指)に、
痛み止めを打った時点で
気絶したという伝説(本当らしいです)のある人でした。
仕事はできるし、
俳優のような面立ちも素敵で、
シニアのアメフットチームでも活躍していて、
女性にはもちろんですが、
若い男子がみな憧れていた人でした。
一昨年冬、
突然電話があって、
「困った時の残間さん頼みなんだけど、
僕に講義をさせてくれる大学はないかな?」と、
聞いて来ました。
それまでの半年間、
岡さんは母校・早稲田大学で、
「日本の広告史と文化論」みたいな、
講義をしていたのですが、
学校側のカリキュラムの都合で、
前期だけで終わってしまったそうで、
せっかく1年分の講義のために、
資料を整えたので、
改めてどこかの大学で、
話をさせて欲しいということでした。
たまたま青山学院大学教授の、
大垣尚司さんの紹介で、
青山学院大学の三木義一学長と、
親しくしていたので、
話をしたところ、
青山学院大学サイドも「是非に」ということで、
2度ほど学校関係者との面談に、
連れて行くなどした結果、
岡さんは昨年春から1年間、
青山学院大学教養課程の正規の授業として、
教壇に立って講義をしていたのです。
今年になって、
「その後どうなったのかしら」と、
気にはなっていたのですが、
初春からコロナ禍となり、
何となく聞きそびれているうちに、
時間が経ってしまいました。
(三木学長の退任が決まっていましたので、
岡さんも1年間の約束で始めたのですが、
学校側は続けて欲しそうでしたから)
随分遅くなりましたが、
思い立って、
先々週の15日に電話をしたら、
「今年になってから体調が良くなくて、
この間まで一ヶ月ほど、
入院していたんだよ」と言うのです。
「岡さんと病気なんて、
まったくイメージが一致しないね。
それで何の病気なの?」と、聞いたところ、
「ごめん、僕、今日これから、
また入院するんだよ。
それで、今入院の支度をしているところなので、
あとでまた連絡するよ。
いずれにしても3週間ぐらいで、
出てくるから」と言って、
電話は切れたのです。
岡さんからはその日長いメールが来て、
体調の変化を感じた日から今に至る経過や、
病名も記されていました。
岡さんの会社から届いた訃報にも、
載っていましたが、
「急性多臓器不全」という病気でした。
岡さんのメールには、
「死因みたいな病名ですが、
これが正式な病名です」と、
ジョークのような文章で説明されていました。
(PCR検査は陰性だったそうで、
蔓延している新型コロナウイルスでは、
なかったのですが、
何らかのウイルス感染によるものだと、
いうことですから、
世の中にはまだまだ、
未知なる怖いウイルスが存在しているのですね)
最後のメールは先週21日で、
この日、岡さんは、
転院した旨を書いてきました。
診てくださっていた若いドクターを、
とても信頼していましたが、
そのドクターの師匠格の先生が、
診てくださるというので、
「希望」を感じながら、
転院したようでした。
4連休の間も気になって、
連絡をしようかと迷いましたが、
岡さんから何か言ってくるまでは、
遠慮していようと思っていたら、
悲しい知らせが届いたのです。
岡さんというクリエーターが、
どんな人だったのかについて、
みなさまに知っていただきたく、
私がかつて、
「club willbe」の HPインタビューで、
岡さんにお話を伺っていますので、
「追悼」の気持ちを込めて、
再掲載させていただくことにしました。
(「club willbe」のHPをご覧ください)
幼少期にお父さんが失踪して、
母子家庭で生活保護を受けながら、
育ったことや、
電通での活躍と電通を辞めた時の話、
「年をとったら山の斜面かどこかに、
仲のいい人たちと固まって住みたい」と、
言っていた話など、
岡さんの魅力がつまっていますので、
ご一読いただけたら、
岡さんも喜んでくださると思います。
