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クミコさん(歌手)
2023.07.05
7/12 NEWシングル「時は過ぎてゆく/ヨイトマケの唄」発表

2人の伝説的シャンソン歌手の名曲、金子由香利さんのシャンソン「時は過ぎてゆく」と美輪明宏さんのオリジナル曲「ヨイトマケの唄」をカバーした楽曲を収録しています。
本シングルの制作には、クラブ代表・残間がプロデューサーとして加わっています。

「銀巴里から生まれたうた」をテーマに、金子由香利、美輪明宏がシャンソン喫茶・銀巴里で唄った「時は過ぎてゆく」「ヨイトマケの唄」
クミコNEWシングルに収録
「昭和」から「令和」に歌い継がれる、美しい日本語詞のシャンソン
美輪明宏、金子由香利、戸川昌子などを輩出した「銀巴里」は、西洋に憧れていた日本人が、「銀座」と「巴里」をマリアージュさせて1951年に銀座に生まれたシャンソン喫茶で、惜しまれながら1990年末に閉店しました。
フランスの歌であるシャンソン、その美しいメロディに心惹かれた作詞家たち。
なかにし礼、美輪明宏、岩谷時子、矢田部道一、古賀力などが日本語詞をつけたことで“日本の歌”として広く知られるようになり、現在まで歌い継がれています。
現在再評価されている、昭和歌謡曲、シティPOPなど若者を含めた幅広い層に人気のジャンルは、「昭和」に生まれた名曲のリバイバルであり、「令和」に紡がれる「昭和文化」とされています。
また海外から多くの楽曲が日本に入ってきたのも昭和ですが、様々な音楽ジャンルの中でも、シャンソンは美しい日本語の訳詞がついたことで、令和まで歌い継がれる歌として定着しています。
フランスのシャンソン歌手ジョルジュ・ムスタキが作詞作曲をし、銀巴里出身の故・古賀力が日本語詞をつけ、金子由香利が唄った「時は過ぎてゆく」。
この曲は1986年に公開した倉本 聰初監督作品の映画『時計』の主題歌として起用され、広く知られていきます。
シャンソンの楽曲が映画の主題歌に起用されたのは異例であり、大きな話題となりました。
翌1987年、第38回NHK紅白歌合戦に金子由香利は初出場を果たし、銀巴里出身の歌手が紅白出場することで、時の人となりました。
またクミコも2010年に、広島平和記念公園にある原爆の子の像・佐々木禎子の生涯を綴った歌「INORI~祈り~」がヒット、 NHK紅白歌合戦に、銀巴里出身の歌手として、金子由香利以来23年ぶりの初出場を果たし、注目を集めました。
美輪明宏が作詞作曲・歌唱し、昭和を代表する名曲となった 「ヨイトマケの唄」
昭和のドキュメンタリーソングだと語るクミコの強い希望でNEWシングルに収録
クミコが銀巴里の大先輩としてリスペクトする美輪明宏のオリジナル曲「ヨイトマケの唄」と「時は過ぎてゆく」が同時収録されているNEWシングルですが、クミコは「ヨイトマケの唄」 を、「昭和から今にいたる日本のドキュメンタリー。母子ものの体裁ではあるけれど、それだけではない、これは生きとし生ける人間の歌なのだと。」とコメントをしています。
銀巴里で歌われていた昭和のドキュメンタリーソングと言える「ヨイトマケの唄」を、どうしても自分で歌い継ぎたいという決意から、レコーディングすることになりました。
クミコさんのコメント
新しいCDについて。
前回の「愛しかない時」に続き、今回もまたシャンソンに関係する歌を選びました。どちらも私の育った伝説のシャンソン喫茶「銀巴里」の大先輩お二人の歌です。
一つは「時は過ぎていく」。
金子由香利さんの歌で、ムスタキの作品に、これまた大先輩の古賀力さんの日本語詞。
金子さんはシャンソン歌手として1987年に紅白歌合戦にも出場されていますが、そのブレイクのきっかけが山口百恵さんだったことは有名です。
そのキーパーソンが、今はプロデューサーとして活躍されている残間里江子さん。引退を控えた百恵さんの直筆の自伝「蒼い時」発刊仕掛け人でもあり、百恵さんと金子さんを繋げた人物でもあります。
百恵さんは金子さんの内省的なシャンソンに涙し、それが世に知られテレビにも登場。ここから一気に金子さんは時の人になります。
私も、永六輔さん司会のテレビ番組で金子さんの歌を聴き、ショックを受けました。
それまで越路吹雪的シャンソンしか知らなかったので、ベクトルが真逆の金子さんの歌に驚き、そこで初めてシャンソンの奥深さを知ることにもなりました。
今思えば、こんなミラクルがあったのが、まさに昭和でした。
シャンソンというサブカルチャーとでもいえそうなジャンルから、中年女性の歌い手が颯爽と登場して来られた時代。
それを受け入れ感動する人たちもたくさんいた時代。
シャンソンが大手を振って歩いていた輝かしい時代。
それが昭和でした。
ちなみに、昭和は女性がだんだんと力を持とうとした時代でもありました。
残間里江子さんは、女性編集長としても采配をふるい、それはそれまでの男社会ヒエラルキーとの闘いでもありました。
女性ならではの視点でのプロデュース力は金子さんのコンサートでも発揮され、渋谷パルコでのコンサートは「公園通りのシャンソニエ」という魅惑的な名で憧れの的になりました。
まさに「時は過ぎていく」です。
今の音楽界には、シャンソン的なものが受け入れられる余地はそれほどないでしょう。
けれど、私はそんなに悲観していません。
歳を重ねるほどに味わい深くなる音楽が、そうやすやすと消えるはずはないと思うからです。
若さを武器に闘ってきた私たち世代は、昭和平成令和と時を超え、どんどんしたたかになってきました。
生きるということに、したたかに柔らかく、そして知恵を持ってきました。
そして、言葉に自分の生き方をこめられる歌を捨てたりはしません。
そんなもったいないこと、誰がするものですか。
で。もう一つ「ヨイトマケの唄」。
言わずと知れた美輪明宏さんのオリジナル曲です。
美輪さんは、多くのシャンソンを歌われていますが、私はこれこそが最高のシャンソンだと思います。最高の日本産のシャンソン。
シャンソンは、愛の歌といっていいと思いますが、そこには男女だけでなく親子も人類愛も含まれます。
愛はそれほど深く広く、汲めども尽きない泉なのだということでしょう。
「ヨイトマケの唄」を歌うことに初めは躊躇しました。
昭和初期の空気が立ち昇り、ある種ベタでもある母子の歌に、足を踏み入れる勇気がなかったのです。
ところが、いざ歌ってみると。
そこには甘ったるい感傷などこれっぽっちもありませんでした。
ただただひたすら時代の中を生きようとし、生きてきた人間しか浮かび上がりません。
驚いたことに、私自身の昭和の記憶、家族の記憶までが蘇ってきます。
油臭い街や泥跳ね、黒くくすんだ工場や煙突、そこで働く人たち。
それは私の父親や母親でもありました。
ああ、この歌はドキュメンタリーなのだと思いました。
昭和から今にいたる日本のドキュメンタリー。
母子ものの体裁ではあるけれど、それだけではない、これは生きとし生ける人間の歌なのだと。
「時は過ぎていく」と「ヨイトマケの唄」。
今回も歌の道を行く、偉大な先人たちの曲を選びました。
そして今回はプロデューサーとして、残間里江子さんをお迎えしました。
あの奇跡の時代を知っている、いえ、作り手として、さまざまなことを教えていただきたいと思っています。
そこから時代の熱、時代を照らす光を、再び胸に熱く灯したいと願っています。
それが、これからの道に迷い、心細さに泣かずにすむ唯一の方法だと思います。
新しいCDについて。
前回の「愛しかない時」に続き、今回もまたシャンソンに関係する歌を選びました。どちらも私の育った伝説のシャンソン喫茶「銀巴里」の大先輩お二人の歌です。
一つは「時は過ぎていく」。
金子由香利さんの歌で、ムスタキの作品に、これまた大先輩の古賀力さんの日本語詞。
金子さんはシャンソン歌手として1987年に紅白歌合戦にも出場されていますが、そのブレイクのきっかけが山口百恵さんだったことは有名です。
そのキーパーソンが、今はプロデューサーとして活躍されている残間里江子さん。引退を控えた百恵さんの直筆の自伝「蒼い時」発刊仕掛け人でもあり、百恵さんと金子さんを繋げた人物でもあります。
百恵さんは金子さんの内省的なシャンソンに涙し、それが世に知られテレビにも登場。ここから一気に金子さんは時の人になります。
私も、永六輔さん司会のテレビ番組で金子さんの歌を聴き、ショックを受けました。
それまで越路吹雪的シャンソンしか知らなかったので、ベクトルが真逆の金子さんの歌に驚き、そこで初めてシャンソンの奥深さを知ることにもなりました。
今思えば、こんなミラクルがあったのが、まさに昭和でした。
シャンソンというサブカルチャーとでもいえそうなジャンルから、中年女性の歌い手が颯爽と登場して来られた時代。
それを受け入れ感動する人たちもたくさんいた時代。
シャンソンが大手を振って歩いていた輝かしい時代。
それが昭和でした。
ちなみに、昭和は女性がだんだんと力を持とうとした時代でもありました。
残間里江子さんは、女性編集長としても采配をふるい、それはそれまでの男社会ヒエラルキーとの闘いでもありました。
女性ならではの視点でのプロデュース力は金子さんのコンサートでも発揮され、渋谷パルコでのコンサートは「公園通りのシャンソニエ」という魅惑的な名で憧れの的になりました。
まさに「時は過ぎていく」です。
今の音楽界には、シャンソン的なものが受け入れられる余地はそれほどないでしょう。
けれど、私はそんなに悲観していません。
歳を重ねるほどに味わい深くなる音楽が、そうやすやすと消えるはずはないと思うからです。
若さを武器に闘ってきた私たち世代は、昭和平成令和と時を超え、どんどんしたたかになってきました。
生きるということに、したたかに柔らかく、そして知恵を持ってきました。
そして、言葉に自分の生き方をこめられる歌を捨てたりはしません。
そんなもったいないこと、誰がするものですか。
で。もう一つ「ヨイトマケの唄」。
言わずと知れた美輪明宏さんのオリジナル曲です。
美輪さんは、多くのシャンソンを歌われていますが、私はこれこそが最高のシャンソンだと思います。最高の日本産のシャンソン。
シャンソンは、愛の歌といっていいと思いますが、そこには男女だけでなく親子も人類愛も含まれます。
愛はそれほど深く広く、汲めども尽きない泉なのだということでしょう。
「ヨイトマケの唄」を歌うことに初めは躊躇しました。
昭和初期の空気が立ち昇り、ある種ベタでもある母子の歌に、足を踏み入れる勇気がなかったのです。
ところが、いざ歌ってみると。
そこには甘ったるい感傷などこれっぽっちもありませんでした。
ただただひたすら時代の中を生きようとし、生きてきた人間しか浮かび上がりません。
驚いたことに、私自身の昭和の記憶、家族の記憶までが蘇ってきます。
油臭い街や泥跳ね、黒くくすんだ工場や煙突、そこで働く人たち。
それは私の父親や母親でもありました。
ああ、この歌はドキュメンタリーなのだと思いました。
昭和から今にいたる日本のドキュメンタリー。
母子ものの体裁ではあるけれど、それだけではない、これは生きとし生ける人間の歌なのだと。
「時は過ぎていく」と「ヨイトマケの唄」。
今回も歌の道を行く、偉大な先人たちの曲を選びました。
そして今回はプロデューサーとして、残間里江子さんをお迎えしました。
あの奇跡の時代を知っている、いえ、作り手として、さまざまなことを教えていただきたいと思っています。
そこから時代の熱、時代を照らす光を、再び胸に熱く灯したいと願っています。
それが、これからの道に迷い、心細さに泣かずにすむ唯一の方法だと思います。
残間里江子のコメント
私が初めて「シャンソン」を意識したのは金子由香利さんの歌を聴いた時です。
28歳の秋、5年半の雑誌記者生活にピリオドを打ち「女性自身」編集部を去りました。収入的にも立場的にも不満はなかったのですが、そこにそのまま居続けることに何となくの物足りなさを感じたのです。しばらくして女性月刊誌から、インタビューをして署名入りで人物評を書かないかとの誘いを受け、その第一回のゲストが谷村新司さんでした。谷村さんへのインタビュー当日、話が一段落した時、谷村さんが「これを聴いてみて」と、言って、聴かせてくれたのが金子さんのアルバムでした。
「僕が今一番素敵だと思っているアーティストなんだ。銀座7丁目の『銀巴里』というシャンソン喫茶で歌っているから、是非聴きに行って!」と勧めてくれたのです。決まった仕事がほとんどない浪々の身でしたから、早速『銀巴里』に行き、金子さんの生の歌を聴きました。囁くようなピアニッシモ。物語が目に浮かぶ独り芝居のようなステージ。その日を境に私は金子さんが出演する日は銀巴里にいました。
いつしか金子さんと会話を交わすようにもなり、ある時「銀巴里も素敵ですが、ホールコンサートはご興味ないですか」と伺ったところ、金子さんはちょっとはにかみながら「そうねぇ、渋谷の西武劇場で歌ってみたいわ」と、おっしゃったのです。若さゆえの怖いもの知らずだったとも言えますが、行く手に新しい光を探し当てたような気もして、逸る気持ちを胸に翌日西武劇場を訪ねました。劇場窓口担当の男性が出て来て「パルコのメインターゲットは若い女性。申し訳ないけれど知る人ぞ知るの中年のシャンソン歌手とはイメージが違い過ぎます」と、ケンモホロロに近い対応でした。それでも手を替え品を替え交渉に当たりましたが難攻不落でした。
そんなある日「週刊現代」の浅利慶太さんの連載対談に山口百恵ちゃんがゲストで出ていたのを見つけました。読み進めていくと彼女が発した「一言」が目に飛び込んで来ました。浅利さんが「好きな歌手は?」と問いかけた時、百恵ちゃんは「金子由香利さんです」と答えたのです。
当時百恵ちゃんは19歳。「これだ! この一言こそが、パルコの売り場と8階の西武劇場をつなぐ架け橋だ」そう思った私は記事をコピーして西武劇場に持って行き交渉を続けました。しかし、それだけでは了承を得ることはできませんでした。そこで直接百恵ちゃんに会って、金子由香利さんに対する思いを語ってもらおうと百恵ちゃんの所属事務所に取材要請をしたのですが、トップアイドルだった百恵ちゃんに実際に会えたのは2ヶ月ぐらい経った頃でした。
取材時間はラジオ番組の収録の合間の15分間です。有楽町ニッポン放送の旧社屋。スタジオ脇の椅子に座った百恵ちゃんは取材意図を聞くと、持っていた自分の手帳を1枚破いて、万年筆で7行ほど金子さんへの賛辞を記してくれました。通常は喋り言葉でコメントを言い、それをこちらがリライトするという段取りになるのですが、百恵ちゃん自らがペンをとって文章を書いたことに少なからず驚きました。文章の仔細は覚えていませんが「いい文章だった」という記憶はあります。私はこの時素直に「あゝ、書くことが好きな人なのね」と感じていました。
嘆願書のようなこの直筆コメントの効果はてきめんで、1979年3月、金子さんのコンサートは実現しました。百恵ちゃんも忙しいスケジュールの合間を縫って劇場に駆けつけてくれました。ふだん感情をあまり表に出さないと言われていた百恵ちゃんでしたが、ハンカチで涙を拭いながら金子さんの歌に聴き入っていました。谷村さんも自身の深夜放送でPRをしてくれて3日間の公演は満員でした。余談ですが、この時の制作スタッフによれば、中島みゆきさんも来ていて熱心にステージを観ていたそうです。後にみゆきさんがクミコさんに「十年」を書き下ろした時「この曲は金子さんの『再会』の中島みゆき版だと思った」と、そのスタッフが言っているのを聞いて、なるほどこうして人と人は繋がるのだと感動したものです。
金子さんの西武劇場コンサートは3回公演が急遽4回に追加されるなど大成功のうちに幕を閉じ、金子さんは「知る人ぞ知る」の存在から「全国区の人気歌手」へと歩みを進めることになりました。先日、金子さんのご子息の雅一さんと話したのですが「初めての西武劇場公演は突然開催が決まって、あとは怒涛のような日々でしたよね。チケットがどれだけ売れるかも判りませんでしたからパンフレットも作れず、たしか百恵さんの言葉が記された見開き一枚のプログラムは無料で配布しましたよね」と、懐かしそうに話していました。1年後の1980年3月。百恵ちゃんは婚約を発表し、同時に引退宣言をしました。テレビで記者会見を観ていた私は1年前の西武劇場での百恵ちゃんを思い出しながら、市販のグリーティングカードに「婚約おめでとう。私もこの春、企画制作会社を創りました。お互いに新しい道を歩むことになりますがお元気にお過ごしください」というようなことを書いて、所属事務所宛に送りました。日々、何百、何千のファンレターが届くことでしょうから、読んではもらえないと思いましたが、自分自身に対するけじめとしてもここで改めての御礼を言いたかったのです。約1ヶ月後、創設したばかりのオフィスのポストに百恵ちゃんのからの手紙が届きました。見覚えのある青いインクの文字です。
「引退に際して、40もの出版社から本を出さないかと要請が来ているのですが、どれもゴーストライターを立てるので私は書かなくていいというものばかりです。芸能界での7年半を何らかの形で記しておきたい気持ちはあるのですが、本を作るなら自分で書きたいと思っています。ついては編集を手伝ってもらえないでしょうか」という内容でした。もちろん驚きました。そして次の瞬間、金子由香利さんへのコメントを自筆で書いてくれた日のことを思い返していました。あの日「あゝ、書くことが好きな人なのね」と感じたことを。
このあと、いろいろあって、引退直前の10月に「蒼い時」は出版されました。初版の20万部は初日で完売し、400万部を超えるベストセラーになりました。そして、ここから私の人生模様は大きく変わりました。「蒼い時」がなかったら、今私はここにはいなかったと思います。
……とは言え、あれから40年余の月日が流れました。今や「蒼い時」は旧聞に属する話だと思い、めったに自分からは話しません。何よりも当の百恵ちゃんが市井の人として静かに生活をしているのですから「蒼い時」にまつわるエピソードは努めて封印してきました。それでも今般、敬愛するクミコさんが、私の「心の歌」ともいうべき金子由香利さんの「時は過ぎてゆく」をレコーディングすると聞き、恥ずかしながら私の「昔話」を書かせていただきました。
美輪明宏さんの「ヨイトマケの唄」は、クミコさんが昭和のドキュメンタリーだと評しているように、私も少女期のリアルな日常と重なります。
私の父は長いこと土木作業員の現場監督でした。1年の大半は東北地方の田舎の工事現場で働いていて、家にはお盆と暮れしか帰って来ませんでした。時々、母が父の現場に連れて行ってくれました。現場はトンネルだったり橋梁だったり、学校だったりとさまざまでしたが、どの現場でも父は何十メートルもの高いところに組み立てられた足場を軽々と歩いていました。幼心ながら怖さと誇らしさが入り混じった不思議な気持ちで父の足元を見つめていました。母もまた家計のために私の小・中学校時代は生命保険の外交員をしていました。貧しい人間には保険に入ってくれるような知人や友人もなく、母は踵がすり減った靴を履いて歩き回っていました。
美輪明宏さんの「ヨイトマケの唄」を聴いた時、真っ先に思い浮かんだのが山の現場で軽業師のように足場を登っていた父の姿と額に汗を滲ませた母の疲れた顔でした。そしてその原風景は、ヨイトマケの子同様、「必死に頑張れば希望の欠片くらいは掴める」ということをも教えてくれました。
「時は過ぎてゆく」からは、惰眠を貪ってはいけない。楽しいことにうつつを抜かしてはならないということを学び、「ヨイトマケの唄」からは、苦しくとも悲しくとも自分を信じて前進すれば明日は今日よりいい日になるということを学びました。
熱く、美しい「銀巴里の歌たち」には、この混迷の時代にこそ聴いてほしい力強さが漲っています。
私が初めて「シャンソン」を意識したのは金子由香利さんの歌を聴いた時です。
28歳の秋、5年半の雑誌記者生活にピリオドを打ち「女性自身」編集部を去りました。収入的にも立場的にも不満はなかったのですが、そこにそのまま居続けることに何となくの物足りなさを感じたのです。しばらくして女性月刊誌から、インタビューをして署名入りで人物評を書かないかとの誘いを受け、その第一回のゲストが谷村新司さんでした。谷村さんへのインタビュー当日、話が一段落した時、谷村さんが「これを聴いてみて」と、言って、聴かせてくれたのが金子さんのアルバムでした。
「僕が今一番素敵だと思っているアーティストなんだ。銀座7丁目の『銀巴里』というシャンソン喫茶で歌っているから、是非聴きに行って!」と勧めてくれたのです。決まった仕事がほとんどない浪々の身でしたから、早速『銀巴里』に行き、金子さんの生の歌を聴きました。囁くようなピアニッシモ。物語が目に浮かぶ独り芝居のようなステージ。その日を境に私は金子さんが出演する日は銀巴里にいました。
いつしか金子さんと会話を交わすようにもなり、ある時「銀巴里も素敵ですが、ホールコンサートはご興味ないですか」と伺ったところ、金子さんはちょっとはにかみながら「そうねぇ、渋谷の西武劇場で歌ってみたいわ」と、おっしゃったのです。若さゆえの怖いもの知らずだったとも言えますが、行く手に新しい光を探し当てたような気もして、逸る気持ちを胸に翌日西武劇場を訪ねました。劇場窓口担当の男性が出て来て「パルコのメインターゲットは若い女性。申し訳ないけれど知る人ぞ知るの中年のシャンソン歌手とはイメージが違い過ぎます」と、ケンモホロロに近い対応でした。それでも手を替え品を替え交渉に当たりましたが難攻不落でした。
そんなある日「週刊現代」の浅利慶太さんの連載対談に山口百恵ちゃんがゲストで出ていたのを見つけました。読み進めていくと彼女が発した「一言」が目に飛び込んで来ました。浅利さんが「好きな歌手は?」と問いかけた時、百恵ちゃんは「金子由香利さんです」と答えたのです。
当時百恵ちゃんは19歳。「これだ! この一言こそが、パルコの売り場と8階の西武劇場をつなぐ架け橋だ」そう思った私は記事をコピーして西武劇場に持って行き交渉を続けました。しかし、それだけでは了承を得ることはできませんでした。そこで直接百恵ちゃんに会って、金子由香利さんに対する思いを語ってもらおうと百恵ちゃんの所属事務所に取材要請をしたのですが、トップアイドルだった百恵ちゃんに実際に会えたのは2ヶ月ぐらい経った頃でした。
取材時間はラジオ番組の収録の合間の15分間です。有楽町ニッポン放送の旧社屋。スタジオ脇の椅子に座った百恵ちゃんは取材意図を聞くと、持っていた自分の手帳を1枚破いて、万年筆で7行ほど金子さんへの賛辞を記してくれました。通常は喋り言葉でコメントを言い、それをこちらがリライトするという段取りになるのですが、百恵ちゃん自らがペンをとって文章を書いたことに少なからず驚きました。文章の仔細は覚えていませんが「いい文章だった」という記憶はあります。私はこの時素直に「あゝ、書くことが好きな人なのね」と感じていました。
嘆願書のようなこの直筆コメントの効果はてきめんで、1979年3月、金子さんのコンサートは実現しました。百恵ちゃんも忙しいスケジュールの合間を縫って劇場に駆けつけてくれました。ふだん感情をあまり表に出さないと言われていた百恵ちゃんでしたが、ハンカチで涙を拭いながら金子さんの歌に聴き入っていました。谷村さんも自身の深夜放送でPRをしてくれて3日間の公演は満員でした。余談ですが、この時の制作スタッフによれば、中島みゆきさんも来ていて熱心にステージを観ていたそうです。後にみゆきさんがクミコさんに「十年」を書き下ろした時「この曲は金子さんの『再会』の中島みゆき版だと思った」と、そのスタッフが言っているのを聞いて、なるほどこうして人と人は繋がるのだと感動したものです。
金子さんの西武劇場コンサートは3回公演が急遽4回に追加されるなど大成功のうちに幕を閉じ、金子さんは「知る人ぞ知る」の存在から「全国区の人気歌手」へと歩みを進めることになりました。先日、金子さんのご子息の雅一さんと話したのですが「初めての西武劇場公演は突然開催が決まって、あとは怒涛のような日々でしたよね。チケットがどれだけ売れるかも判りませんでしたからパンフレットも作れず、たしか百恵さんの言葉が記された見開き一枚のプログラムは無料で配布しましたよね」と、懐かしそうに話していました。1年後の1980年3月。百恵ちゃんは婚約を発表し、同時に引退宣言をしました。テレビで記者会見を観ていた私は1年前の西武劇場での百恵ちゃんを思い出しながら、市販のグリーティングカードに「婚約おめでとう。私もこの春、企画制作会社を創りました。お互いに新しい道を歩むことになりますがお元気にお過ごしください」というようなことを書いて、所属事務所宛に送りました。日々、何百、何千のファンレターが届くことでしょうから、読んではもらえないと思いましたが、自分自身に対するけじめとしてもここで改めての御礼を言いたかったのです。約1ヶ月後、創設したばかりのオフィスのポストに百恵ちゃんのからの手紙が届きました。見覚えのある青いインクの文字です。
「引退に際して、40もの出版社から本を出さないかと要請が来ているのですが、どれもゴーストライターを立てるので私は書かなくていいというものばかりです。芸能界での7年半を何らかの形で記しておきたい気持ちはあるのですが、本を作るなら自分で書きたいと思っています。ついては編集を手伝ってもらえないでしょうか」という内容でした。もちろん驚きました。そして次の瞬間、金子由香利さんへのコメントを自筆で書いてくれた日のことを思い返していました。あの日「あゝ、書くことが好きな人なのね」と感じたことを。
このあと、いろいろあって、引退直前の10月に「蒼い時」は出版されました。初版の20万部は初日で完売し、400万部を超えるベストセラーになりました。そして、ここから私の人生模様は大きく変わりました。「蒼い時」がなかったら、今私はここにはいなかったと思います。
……とは言え、あれから40年余の月日が流れました。今や「蒼い時」は旧聞に属する話だと思い、めったに自分からは話しません。何よりも当の百恵ちゃんが市井の人として静かに生活をしているのですから「蒼い時」にまつわるエピソードは努めて封印してきました。それでも今般、敬愛するクミコさんが、私の「心の歌」ともいうべき金子由香利さんの「時は過ぎてゆく」をレコーディングすると聞き、恥ずかしながら私の「昔話」を書かせていただきました。
美輪明宏さんの「ヨイトマケの唄」は、クミコさんが昭和のドキュメンタリーだと評しているように、私も少女期のリアルな日常と重なります。
私の父は長いこと土木作業員の現場監督でした。1年の大半は東北地方の田舎の工事現場で働いていて、家にはお盆と暮れしか帰って来ませんでした。時々、母が父の現場に連れて行ってくれました。現場はトンネルだったり橋梁だったり、学校だったりとさまざまでしたが、どの現場でも父は何十メートルもの高いところに組み立てられた足場を軽々と歩いていました。幼心ながら怖さと誇らしさが入り混じった不思議な気持ちで父の足元を見つめていました。母もまた家計のために私の小・中学校時代は生命保険の外交員をしていました。貧しい人間には保険に入ってくれるような知人や友人もなく、母は踵がすり減った靴を履いて歩き回っていました。
美輪明宏さんの「ヨイトマケの唄」を聴いた時、真っ先に思い浮かんだのが山の現場で軽業師のように足場を登っていた父の姿と額に汗を滲ませた母の疲れた顔でした。そしてその原風景は、ヨイトマケの子同様、「必死に頑張れば希望の欠片くらいは掴める」ということをも教えてくれました。
「時は過ぎてゆく」からは、惰眠を貪ってはいけない。楽しいことにうつつを抜かしてはならないということを学び、「ヨイトマケの唄」からは、苦しくとも悲しくとも自分を信じて前進すれば明日は今日よりいい日になるということを学びました。
熱く、美しい「銀巴里の歌たち」には、この混迷の時代にこそ聴いてほしい力強さが漲っています。
時は過ぎてゆく/ ヨイトマケの唄
日本コロムビア びいだまレコーズ/CD:COCA-18131/2,200円