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空と大地の間で生きている 1/2

202208
1986年、私は初めて自主企画でトークイベントをプロデュースしました。10日間、105人の様々な働く女性をゲストに集めた、一大トークセッションでした。その記念すべきイベントのコピーライティングを担当してくれたのが、藤原ようこさんです。それ以来のおつきあいですが、彼女は競争の激しい広告界にあっても、いつも羨ましいくらいの自然体。そのまっすぐな言葉が聞きたくて、久しぶりにお会いすることにしました。(残間/2022年7月取材)
(聞き手/残間里江子 撮影/岡戸雅樹 構成/髙橋和昭)


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残間
藤原さんというと、やはり私にとっての初の自主企画イベント、『地球は、私の仕事場です』(※)の名付け親ということになるのですが、あのタイトルには助けられました。たくさんの方に出演交渉しましたが、「このタイトルだから出ることにしました」というゲストが少なからずいたんですよ。
※FELLOWSHIP'86 WOMEN'S TALK SESSION『地球は、私の仕事場です』 1986年12月に東京・表参道のスパイラルホールにて10日間にわたって開催された。「女性と仕事」をテーマに全34セッション、ゲスト総数105人という大規模なトークイベント。ゲストには政治家、作家、女優、法曹関係者、キャスター、ファッションデザイナー、ミュージシャンなど多彩な顔ぶれが揃い、制作スタッフもアートディレクターに長友啓典、カメラマンに立木義弘など、当時の一流クリエーターが参加。藤原ようこさんはコピーを担当した。残間里江子らの事務局が企画から資金集め、出演交渉、制作までを総合プロデュースした。 パンフレット(PDF)

藤原
あの企画に関われたのは、私も本当に嬉しかったです。

残間
単なる職業にとどまらず、自分の“仕事”に真摯に向き合っている女性たちが、それぞれの思いを語ってくれました。
今の若い人にはピンと来ないかもしれませんが、イベントのあった1986年というのは男女雇用機会均等法が施行された年で、女性と仕事の関わり、女性の生き方のようなものが、すごくクローズアップされた時期でしたね。

藤原
あれから2年くらい後、オノヨーコさんに用事がある知人の運転手でホテルオークラに行きました。届け物をするだけのつもりがヨーコさんに会えて、詳しい経緯は端折りますが、一緒に朝ごはんをって誘われたんです。

残間
えー! すごい。

藤原
ヨーコさんに「あなたは何をやってるの? ふーん、コピーライター。例えばどんな感じの?」ときかれたので、私はあのイベントタイトルを伝えたんです。すると
「地球は、私の仕事場です………地球は、私の仕事場です」と二回声に出した後、私の目を見て「強い言葉ね!」って言ってくれました。 私は広告の賞とかなーんにも縁がないんですが、ヨーコさんの言葉は私にとって最高のご褒美だと思ってます。

残間
それは初耳ですが、私にとってもすごく嬉しい話です!

列が短いのでこっちに来ちゃいました

残間
藤原さんは1970年代からコピーライターとして活動されてますが、そもそもどういった経緯でこの世界に入られたんですか?

藤原
出身が青短(青山学院短期大学)の英文科だったんですが、あそこを出ると商社に行く人が多かったんです。今でいうリクルートスーツに身を包んで受けに行くところですね。お給料もよかったみたいで………。
私はそういうのに全然興味がなくて、いわゆる「ザ・企業」には入りたくなかったんです。それでラジオ局やレコード会社を受けたのですが、どちらも役員面接ぐらいで落ちました。喋りすぎたので、使いにくいと思われたのでしょうか………?

それである日、新聞で広告会社の「コピーライター求む 女子事務員求む」、という小さな求人広告を見つけたんですよ。

残間
コピーライターと女子事務員、二つの職種を募集していたんですね。

藤原
ええ。コピーライターって何だろう? と思って国語辞典で調べたら“広告文案作家”と書いてあり、………そういう仕事があるんだと、初めて知りました。
私はその頃、いっぱい落書きのような文章を書いていて、そのノートと履歴書を持って受けに行ったんです。

残間
コピーライターの方で受けたのですか?
藤原
いえ、やはりそこは、女子事務員の方で。
それで会社に行ってみると、女子事務員を希望する人が長い列を作ってたんですが、コピーライターの方は列が短かったんですね。しばらくしてコピーライターの部屋から「次の方」と呼ぶ声がしたのですが、その列には誰もいなかったので、思わず私は「はい」と答えて、そっちに入って行ったんです。

残間
(笑)本当は女子事務員で応募していたのに?

藤原
面接の部屋に入ってみると、クリエーターの方がいました。私は正直に「実は事務員で受けに来たんですけど、列が短いのでこっちに来ちゃいました」と言ったら、「あなた、面白いね」と言われまして、持ってきたノートを見てくださったんです。
その方がノートを面白いって言ってくれたんですが、向こうが求めていたのは即戦力のコピーライターだったんですね。

でも、こうも言ってくれました。「僕が行ってたコピーライターの養成講座というのがあるから、興味があるなら行ってみれば?」
それで銀座にあったその養成講座に通うことにしました。講座は夜で、昼間はマーケティング会社の集計バイトをするという、先の見えない日々。

養成講座は、電通や博報堂の営業職だけど制作に移りたい人や、広告の何たるかを学びに企業の宣伝部の人が来るような所でした。かと思うとトラックの運転手さんがいたり、いろんな人がいて面白かったですね。その講座の出身者に糸井重里さんや林真理子さんもいたことは、後から知りました。

残間
コピーライター修行はどうでした? 最初から文才発揮?

藤原
一年間通いましたが、特に最初の半年は全然ダメでした。毎回、課題が出るんですが、一等賞なんか全く取れない。いつも制作会社に勤めていた同じ人がとってました。
ところが私、最後の卒業制作で一等賞、いただいたんです。他のみんなはコピーだけでなく分厚い企画書も出してましたが、私は原稿用紙一枚だけで、一等賞をもらっちゃいました。

残間
どんなコピーだったか覚えてます?

藤原
覚えてますよ。マックスファクターか何かの化粧品の広告という課題でした。

「少年の視線を感じても、気づいたふりをしてはいけません。」というキャッチと、ボディコピーが200から300字くらい。。

残間
ふ~む………なるほど。

藤原
二等賞になったのは博報堂の営業職でコピーライターを目指していた方なんですが、やはり分厚い企画書をつけてました。
「お前ずるいよな。原稿用紙一枚で一等賞さらって」って言われたのを覚えてます。

講座の卒業後は制作プロダクションや外資系の広告代理店に勤めて、それからフリーになりました。

残間
フリーランスの活動は最初から順調だったんですか?

藤原
いえいえ。フリーと言っても「○月○日より、藤原ようこ事務所として活動します」みたいなことを宣言したわけでもなく、営業活動というのを全然やらなかったんですね。だから知人に会うと、「大丈夫? ちゃんとご飯食べてる?」って心配されてました(笑)。

まあ、そうやって心配してくださる方が「やってみる?」という感じで仕事を持ってきれくれました。展示会のショー台本なんかもやりましたね。やったことなかったことも、楽しい部分を見つけてやってみればできちゃいました、という感じで今に至っています。

何で女が来たの?

残間
藤原さんは一般的な商品広告だけでなく、映画のキャッチコピーや邦題も数多く手掛けていますね。『オペラ座の怪人』『ロッキー・ザ・ファイナル』『最高の人生の見つけ方』などなど、コピーを見ると思い出す人も多いと思いますよ。「オペラ座の怪人はクセになります。」とかね。 ※藤原ようこの仕事

藤原
映画の仕事は楽しいんですよ。キャッチコピーや邦題って、元々は映画会社が自分達で作っていたので宣伝制作予算は広告よりず~っと少ないんですが、映画館用にB全のポスターを作るんです。自分のコピーが入ったポスターが、例えば、表参道の駅の柱全部に貼られたりしたら、嬉しくなりますよね~~。映画を観て、ディレクターや宣伝プロデューサーと相談しますが、一番の押しが決まるとは限らない。だから、参加するのは基本、心から「たくさんの人に見てほしい」と思える作品に限ることにしています。

残間
藤原さんが仕事を始めた1970年代というと、女性のコピーライターというのは少なかったんじゃないですか? 林真理子さんという存在はあったでしょうが。

藤原
私は資生堂の広告が大好きでした。憧れのクリエイターにファンレターを出すくらい! 資生堂に入りたくて、『花椿』(資生堂のPR誌。ハイセンスなデザインで各界から注目されていた)にも電話したんですが、「女は取らない」と。ではアルバイトならと言っても、「間に合ってます」って感じで。
化粧品などの女性向けの商品でも男性がコピーを書いていた時代で、大好きなコピーライターの方もいましたが………、その後、ご縁をいただき、資生堂のスキンケアキャンペーンに参加。「神サマ、ありがとう」が決まった時は、ほんとうに嬉しくて、心から「ありがとう」でした。

それまでの制作プロダクション時代、カメラ関係の仕事で打ち合わせに行ったら、「何で女が来たの?」って言われたこともありましたからね………

残間
そういう時代でしたよね。

藤原
だから「地球は、私の仕事場です」の仕事は、すごく嬉しかった。いろんな仕事をしている女性がこんなにいるんだと思いましたから。10日間、毎日通いましたよ。



(続く)


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