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激動の七十年代をくぐり抜けて 2/3



(中篇) 音楽業界との縁はミュージカル!?



残間
上京二年目の1969年。大野さんはミュージカル劇団、後の東京キッドブラザーズ(当時はキッド兄弟商会)に加わることになりますが、これはどういう経緯で? 芝居に興味はあったんですか?

大野
全くありませんよ。芝居なんて小学校の学芸会以来でした。

実は同じセツ・モードセミナーに通っていて、後にパステル画のイラストレーターとして有名になる先輩のペーター佐藤と仲が良かったんです。
ある時、ペーターが「劇団の公演ポスターを描いたんだ」といって見せてくれました。それがキッド兄弟商会の旗揚げ公演。ペーターがポスターを描いたんだからと、舞台を観に行ったんですが、それがなかなか面白かった。

それでペーターは劇団の主宰者の東由多加さんに、僕のことを事前に吹き込んでたんですね。ビートルズの曲なら何でも歌える奴がいると。それで終演後に東さんに引き合わされると、いきなり「一緒にやらない?」って誘われました。

「芝居? ミュージカル? はあ? だいたい今、会ったばかりでしょ?」っていう感じですよ。すぐに断ったんですが、東さんが言ったんです。
「芝居見ただろ? みんな歌がイマイチなんで、歌の上手い人に入って欲しいんだ」
それでチケット販売のノルマはなし、月給1万円という条件で加わることになりましたが、結局退団するまでの半年間、一銭ももらえませんでした。

残間
歌は小さい頃から得意だったんですか?

大野
得意というか歌うのは好きでした。よく学校帰りに大きな声で歌っていましたね。それから町内の催しや学校の遠足で、歌ってと言われるとその気になって歌ってました。

残間
人前で歌うことが苦じゃなかったのね。それで上手いと褒められていたと。

大野
声変わりする前までですね(笑)。
東京キッドでは作曲家の下田逸郎さんが書いた曲を、劇団員に教える役割を与えられてしまいました。他人に教えたことなんてないのにですよ。歌詞とコード進行を書いた紙を渡されて、後はよろしくという感じで。

それから開演前にギターを弾きながら客席に入っていって、客に向かって「オレはビートルズを聴いて生きてきたAND YOU?」と歌いかけるんです。その反応次第では「良いねえ」とか「スゴイ!」とか、「そりゃあダサいなあ!」とか突っ込んだりして、開演に持っていくわけです。

残間
開演前に盛り上げるのですね。

大野
そう、それで幕が開くと真ん中で僕が芝居のテーマ曲を歌ってる(笑)。ですから本編の一曲目が終わるまで忙しかったですね。

今、話した芝居のタイトルが、キッド兄弟商会の第2回公演の「東京キッド」、最初3週間の予定が二ヶ月半のロングランになりました。何しろお客さんが長蛇の列で、会場があった渋谷の南口が大変なことになってたんです。

残間
東京キッドブラザースの人気はすごかったですよね。柴田恭兵さんのようなスターも現れて。

大野
恭兵くんとは劇団ではかぶってないんです。彼がスターになったのはずっと後の話です。後に東京キッドが映画(ピーターソンの鳥)を作ることになって、僕も参加しました。その時に劇団のスタッフが赤い車で僕の送り迎えをしてくれたんですが、だいぶ後になって恭兵くんから、「大野さん、覚えてます? あの赤い車。あれを運転してたの僕なんですよ」って言われました。
いや、まったく覚えてなかった(笑)。まさか、柴田恭兵がスタッフをやっているなんて思わなかったですから。

一方、当時ブロードウェイで『ヘアー』というミュージカルが大ヒットしてまして、その日本版スタッフが東京キッドの評判を聞きつけて、観に来ていたんです。それが元になってオーディションを受けることになり、同じ年の12月に日本版『ヘアー』の舞台に立つことになりました。

残間
急展開ですね。まだ上京2年目ですよね。

大野
まだ、というのは今思えばですけどね。僕にとっては上京してからのそこまでの時間は長かったです。そういえば、オーディションの時にドラムを叩いていたのが、まだ高校生の高橋幸宏でしたね。
そしてその『ヘアー』に同じく出演していたのが堀内護。よく楽屋などでギターをポロポロ弾いてました。とにかく無口な男だったですけど、ギターは上手かったですね。

残間
マークですね。いよいよGAROの時代。

合わないはずの二人と一人が、ひとつになった

大野
マークとトミー(日高富明)は高校時代から、それぞれグループサウンズのようなバンド活動をしていたんですが、トミーは松崎しげると一緒に「ミルク」。マークは「エンジェルス」という由美かおるのバックバンドなんかもやっていました。

それで1970年の初夏に、銀座阪急の屋上ビアガーデンで連日ハコバンドをやっていた「ミルク」を観に行ったんです。トミーはそのバンドではリードギター。松崎は勿論リードボーカルでしたが、トミーとハーモニーの曲なんかもやってたりして、良いバンドだなぁと思いましたね。ただ、ときどきトミーが抜けたりすることがあって、その時はピンチヒッターとしてマークがリードギターで参加してました。

その後、松崎がソロデビューすることになって、マークとトミーは二人で活動するようになりました。その頃の僕は、東横劇場での「HAIR」の出演者たちや新たな仲間達と、「HAIR」の自主公演をやったりしてました。その時は出演者ではなくて音楽監督でしたけどね。
残間
当時から不思議だったんですが、GAROって、大野さんだけ毛色が違う感じでしたよね。あとの二人はアイドルみたいだったし。

大野
そう。あの二人は東京生まれのボンボンなんですよ。片やこっちは親父は職人で、岡崎でロクに小遣いがもらえないんで、小三から高校まで新聞配達やってましたからね。音楽的にも僕は高校時代バンドで大声でシャウトしてたせいで、こんなしゃがれ声になってしまいましたが、あの二人は繊細でとてもきれいな声だったんですよね。

だから二人から一緒にやらないかと何度も誘われていたんですけど、ずっと断っていたんです。性格的にも合いそうになかったし。

残間
それが、なぜか一緒にグループを結成することになりますね。

大野
内田裕也さんがプロデュースしていたフラワー・トラベリング・バンドが海外公演をすることになって、壮行会コンサートというのがサンケイホールで開かれることになりました。その時にマークとトミーは開演前に会場のロビーで歌うことになってたんです。それでマークから12弦ギターを貸してと頼まれたので、僕は持って行っただけだったんですが、何曲か演奏した後で突然一緒にやらないかと。

それまで一度も一緒にやったことはなかったんですよ。でもやってみたら予想外に上手く行って、すごくウケたんです。それが縁でGARO結成後には、内田裕也さんのロックコンサートやイベントにも声をかけてもらえるようになりました。「HAIR」に出演した時から、よく楽屋にも遊びに来ていて知り合いだったんです。

残間
するとGAROの結成は何年に?

大野
正式には1970年の11月です。僕は21歳になったばかり。

残間
そんなに若かったんですか!?

大野
上京してから2年半ですね。でも、この期間は本当に濃密だったというか、いろんなことがありすぎて、そこに来るまで、すごく長く感じました。

残間
GAROは73年に『学生街の喫茶店』でブレイクするんですが、チャートで一位になった時、大野さんは病気で入院していたんですよね。

大野
十二指腸潰瘍で一ヶ月入院してました。その間はトミーとマークで「あの曲」をやってましたね。

残間
大野さんがリードボーカルの曲なのに! 一位になったタイミングで入院するのがまた大野さんらしい(笑)。





(後篇に続く)





(前篇) すべては平凡パンチから始まった

(中篇) 音楽業界との縁はミュージカル!?

(後篇) そして、これから


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