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激動の七十年代をくぐり抜けて 1/3

1971年にGAROのメンバーとしてレコードデビュー。時に音楽制作の裏方に回ることもありましたが、大野真澄さんは今もステージに立ち続けています。上京からデビューに至る70年前後のあまりに濃密だった時代、そしてコロナ禍の中で大野さんは今、何を思うのか……。“同学年の仲”ということもあり、話はいつまでも尽きませんでした。(残間/2021年6月取材)
(聞き手/残間里江子 撮影/岡戸雅樹 構成/髙橋和昭)


(前篇) すべては平凡パンチから始まった



イラストレーターになりたくてセツ・モードセミナーへ

残間
今日の取材の前に、大野さんが東海愛知新聞に連載していた回顧録を読んだのですが、たいへん面白かったです。私は大野さんと同学年で、同じ年に上京しているせいか、リアルに当時の空気感が伝わってきました。

大野さんが上京後、まず籍を置いたのがセツ・モードセミナーだったというのが意外です。
(セツ・モードセミナー:日本のファッション・イラストレーターの草分け、長沢節が創設した美術塾。ファッションや美術界に多数のクリエーターを輩出した。2017年閉校)

大野
イラストレーターになりたかったんですよ。出身は愛知県の岡崎市ですが、名古屋の工業高校のデザイン科に進学しました。小さい頃から絵を描くのが好きでしたから。

ある時、平凡パンチで長沢節さんが銀座のワシントン靴店で、モノセックスのファッションショーをやったという記事が掲載されていました。それは長沢節さんの学校の生徒さん(超細身で背の高い人ばかり)がモデルで、男性も女性もスカート姿で見たこともないファッションでした。写真を見て何じゃこれは? スゴイ、スゴすぎる!! ということで長沢節さんを知りました。
それで調べてみたらファッションイラストレーターだということがわかり、その作品を見てまたブッ飛びました。もうこの人の元で勉強するしかないと。とにかくカッコイイという表現しか頭に浮かびませんでした。

残間
てっきり最初からミュージシャン志望かと思っていました。

大野
高校の時にバンド活動をしてましたが、プロになれるとは思っていませんでしたね。

残間
ところで私たちの時代、音楽に興味がある若者の常として、大野さんもビートルズに大きく影響されたようですが、あの頃を冷静に振り返ってみると、身の回りでビートルズ、ビートルズと騒いでいた子って、ごく一部だったんじゃないかと思うんです。特に地方では。
私の周辺でも一人だけでしたね。中学2年だったと思いますが、転校してきた女の子がお兄さんのレコードを持ってきてプレイヤーで聴かせてくれて「これ、いいでしょ!」って興奮していました。私は正直のところ、どこがそんなにいいのかわからなかったけれど。
大野さんはビートルズの音楽を初めて聞いた時、衝撃を感じました?
大野
すごい衝撃でしたね。今までのものとはまるで違うモノが出てきたと思いました。ただ、僕の周辺では1人〜2人ということはありませんでした。もっと沢山いましたけどね。

同居していた僕の叔父がプレーヤーとレコードを何枚か持ってて、実は小学校の頃から洋楽を聴いていたんです。その中にジーン・ビンセントの『ビー・バップ・ア・ルーラ』があったんですよ。
小三の時だったんですが、その曲にびっくりしましたね。世間では「♪死んだはずだよお富さん~」なんてやってた時に、「We--ll, be bop a Lula !」ですから。以来、洋楽を聞くようになりました。

残間
ラジオを聴いて、アメリカのヒットチャートをノートに書きつけていたとか。

大野
そうですね。1960年頃になるとプレスリーが兵役に就いたこともあり、アメリカではロックンロールはだんだん廃れていって、ソフトで聴き易い、いわゆるポップスの時代になっていったんです。ニール・セダカとかパット・ブーンとかコニー・フランシスとか。日本でも和訳された曲が流行りましたね。いわゆるアメリカン・ポップスというやつ。僕も夢中になってラジオにかじりついていたんです。

そんな時期、1964年の1月に『プリーズ・プリーズ・ミー』が流れてきました。中学2年の冬でした。とんでもないものが出てきたと思いましたよ。
まだ写真も見たことがなくて、姿形どころか声が高いので、男か女なのかもわからなかったんですが、正にひと聴き惚れでしたね。それまで聴いてきた洋楽がユルイというか、ヤワな音楽になってしまいました。

残間
なるほど。当時の音楽シーンがわかっていたゆえに衝撃があったと。

長沢節の独自の世界観に影響を受けた

残間
話が逸れましたが、上京して入学したセツ・モードセミナーはいかがでしたか?

大野
無茶苦茶なところでしたね。ここは本当に学校か? という感じで。絵なんか教えてくれなくて、先生も自分の経験や人生論を語るばかりだし、授業といえばとにもかくにもクロッキー、デッサンそしてたまに水彩。

そんな中で月に1回ほど批評会というのがあるんですが、この時の批評というかお喋りがメチャメチャ面白かったし楽しかったですね。長沢先生が生徒の描いた絵を一枚一枚批評するんですけれど、当初はその評価の基準がよくわからなかったです。

どう見ても下手な絵にしか見えない作品を、「すばらしい。これはスゴイ。色彩感覚から構図からとても良い。皆、わかるかな? この絵の良さが?」とか言うわけです。頭が?マークだらけでした。でもデッサンやクロッキーについての指摘は、納得のいくものでした。長沢先生のクロッキーはパーフェクトでしたから。

今思えば絵画は基礎をしっかり勉強しておけば、あとの表現は自由だし自分の好きなように描いて良い。人も同じで軸さえしっかりしていれば、その生き方さえも思うがままにすれば良いと教えてくれていたんですね。だからモノセックスのファッションショーも、セツモードセミナーでは何の異和感もなかったんでしょう。

残間
入学試験とかはなかったんですか?

大野
何もないです。面接もなし。作品を見せる必要もない。申し込み書を出して授業料を払えば入れてくれました。それで定員に達したら募集終了。授業は週3日で期間は2年間でしたが、ほとんどの人が中退してしまい、卒業するのは本当に少人数でしたね。ぼくも中退組の一人です。
(注:セツ・モードセミナーは独自の教育方針を貫くために学校法人化を拒否していた模様。専門学校ではなく、正確には会社法人の画塾だった)

残間
生徒は何人ぐらいいたんですか。

大野
午前部・午後部・夜間部とあって、新入生は合わせて300人くらいいたかな。

残間
結構、大勢いたんですね。

大野
でも3ヶ月で半分になって、半年でまた、その半分くらいになってましたけどね。だから半年ぐらいいた人間とはほとんどが知り合い。とにかく学生の自由を重んじて、互いが影響を受けあうことを長沢先生は期待していたんでしょうね。

僕は学校の食堂でバイトをしていたせいもあって、長沢先生とはわりと話す機会が多かったんです。独特な世界観を持った方でした。男も女もない。年上も年下もない。フラットな関係を大切にしていて、考え方もファッションも本当にカッコよかったです。

そういえば、もうこの頃から“ボーカル”っていう渾名がついてました。セツ・モードセミナーでは、ジョニーだのションだのキリストだのニンジンだのと渾名で呼び合っていて、本名なんて知らない人ばかりでした。
僕は大野と呼ばれてたんだけど、同郷のヒロポンって先輩が、高校時代にバンドでボーカルをやってたことを知って、“ボーカル”にしようということになったんです。ボーカル。こんな変なの、やめて欲しかったですね。




(中篇に続く)





(前篇) すべては平凡パンチから始まった

(中篇) 音楽業界との縁はミュージカル!?

(後篇) そして、これから


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