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自分の人生は自分で決める 前編

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1978年、『九月の空』で芥川賞を受賞した高橋三千綱さん。以来、純文学、エッセイ、時代小説、ゴルフ劇画原作など、幅広い分野で執筆活動を続けています。実は高橋さんは10年ほど前から肝硬変、糖尿病、食道がんを発症し、さらに6年前には末期の胃がんの宣告も受けています。病と向き合い、作家はその時何を思ったのでしょうか。(残間)
高橋三千綱さんのプロフィールはこちら
(聞き手/残間里江子 撮影/岡戸雅樹 構成/髙橋和昭)

前編 僕に日本は合わない


残間
今日はよろしくお願いします。闘病中ということですが、お元気そうですね。仕事の方も新刊(『ハート型の雲』幻冬舎刊)が好調です。

まず作家になるまでのことをお聞きしましょうか。お父さんも作家なんですよね(筆名・高野三郎)。

高橋
第一回芥川賞を取った石川達三と、同人誌をやったりしていましたね。

残間
そのお父さんが昔よくあった、他人の借金の保証人になって………ということで、ご苦労もなさったようですが。

高橋
そうそう。それで貧乏な家になりました。毎年リヤカーで引越しをする家庭になった。

残間
小学生の頃はNHK児童劇団に所属して、ずいぶんテレビやラジオに出られたとか。この辺の話は、これまで聞いたことがなかったですね。

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高橋
貧乏だったので、うちの家族は独立採算制だったんですよ。母は保険の外交、姉は成績優秀だったので家庭教師。それで僕は児童劇団。ギャラが良かったから。一番、働いてなかったのは親父だったね(笑)。
高校時代は東映からスカウトされたんです。顔が時代劇向きだということで。でも撮影で京都に行かないといけなかったので、さすがに京都はまずいかと。

残間
確かにヅラが似合いそう。そっちに進んでいれば、全然違う人生だったでしょうね。

高橋
高橋英樹みたいになってたりしてね(笑)。
でもまあ、児童劇団は中学1年で辞めました。最初は中学卒業までという契約だったんですが、才能がないと見切りをつけて。

残間
役者になりたいと思った時期もあった?

高橋
歌の方でもクラウンからスカウトされたりしましたが、芸能の道は向かないと思っていました。要するに楽にお金を儲ける道を探してただけなんですが、それでも向き不向きがあります。

残間
それを小学生の頃からねえ………。その後はどうされたんですか。

高橋
僕は中学生の頃からアメリカに行きたかったんですよ。日本は自分の性格に合わない気がして。

残間
後に留学されますが、日本は合わないって、中学の頃からそんなことを考えていたのですか。

高橋
考えてた。だって劇団にいた頃も、女の子がプロデューサーやディレクターに媚びるのね。「おじさま、ワタシ、こういう服買ったんだけど、どお?」なんて言って。
それからNHKという組織のこともよくわかった。カッチリとした組織なんだけど、ここに自分は向かないと思った。

媚びるということで言うと、みんな世の中を生きる方便が上手いわけ。家族は劇団の幹部にお中元やお歳暮を届けるし。うちは一切やらなかったんだけど、すると全然、待遇が違う。

残間
目に見えるほどに?

高橋
はっきりとわかりますよ。ディレクターはこの役は僕にすると言ってるのに、僕の目の前で「いや、こっちの子で行きましょう」と劇団のおばちゃんが変えちゃうんです。付け届け丸出しでしたね。

それに仕事としてやるなら僕はディレクターだなって思っていましたが、そもそも日本に向いてないと。ここは管理社会でがんじがらめ。それで事なかれ主義。自由じゃない。だからアメリカに行こうと思いました。中学からちゃんと英語を勉強してね。

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アメリカ行きに向けて、着々と準備を進める


高橋
それで高校時代がすごかったんですよ。まず、朝は5時からヤクルトの配達。昼間は剣道部のキャプテンでしょ。それから空手道場にも通ってました。これは将来、アメリカに行った時に教えるため。

残間
(笑)計画的だったんですね。

高橋
夏休みは日本全国を一人で旅してました。北海道、東北、四国、九州。何故かというと、日本のことをよく知らないと、アメリカに行ってもクズ扱いされるだろうと思ってましたから。

残間
そこまで考えていたんですね。

高橋
それから夜は近くにあったアメリカンスクールに行っていました。府中の近く、飛田給の米軍基地内にあったんですよ。そこは試験を受けて合格すると、タダみたいなお金で教えてくれたんです。夜の7時から9時半ぐらいまで。

残間
朝からフル回転ですね。

高橋
剣道やってからアメリカンスクールに行くから、もうフラフラでしたよ。それに調布市の若人の会の会長したり、同人雑誌を発行してもいました。

残間
それで朝5時からヤクルト配達。でも男の子でヤクルト配達ってあまり聞きませんね。昔はヤクルトおばさん、最近はヤクルトお姉さんです。新聞配達じゃなくて、どうしてヤクルトだったんですか?

高橋
新聞はちょっと重いの。

残間
(笑)

高橋
牛乳もそう。でも一部、一本配るごとのコミッションは同じなの。朝、よく新聞配達の奴とすれ違って「よお」とかやってましたが、内心は「あいつら要領悪いな」とか思っていました(笑)。

残間
なるほど。きちんとお金を稼ぎ、先のことも考え、いよいよ高校卒業後に留学するわけですね。

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高橋
私費留学だったから大変でした。渡航費は母親が出してくれたし、州立大学だったから学費もたいしたことはない。でも行って1ヶ月もすれば、下宿代も払えなくなる状態でした。

残間
留学先はサンフランシスコですよね。

高橋
サンフランシスコ州立大学です。創作科、クリエイティブ・ライティングっていうんですけど、全米の大学で3箇所しかないんですが、そこに入りました。世界的なジャーナリストになるのもいいかなあと(笑)。日本人は僕一人でしたね。それも最初の日本人だったそうです。

残間
向こうでも働いたんですよね。

高橋
留学生は週に20時間だけという決まりがありました。だから食うので精一杯。最初は皿洗い、それから旅行代理店。夏はぶどう狩り。アメリカ人の女の子に、よく弁当を作ってもらったりしてましたね。ガールフレンドには恵まれてたんですよ。

残間
ガールフレンドってアメリカ人ですか?

高橋
だってそこはアメリカですよ。毎日、車で迎えに来てくれたり。今でも付き合いがあって、ロスにいる娘の相談相手になっています。

残間
海外では日本の女の子はモテるけど、日本の男の子はモテないと聞きますが、児童劇団にスカウトされるぐらいですからね。助かりましたね。

高橋
このことに限らず、やっぱり時には誰かに助けてもらわないと。一人で踏ん張ってちゃダメですよ。たぶん、一人じゃ半年もたなかったと思います。
ところが留学は3年で終わりになりました。バイト学生ではとても勉強がついていけない。 姉の結婚で一旦日本に帰り、また戻るつもりだったんです。でも私費留学だと、帰りの渡航費だとか経済的な裏付けや保証人が必要になるんですが、これがクリアできなくなってビザが下りなくなった。金がないのは寂しいね。


書くことが自分にとって自然だった


残間
帰国後は早稲田大学の英文科に入学します。早稲田での大学生活は?

高橋
やはり生活苦で学校に籍をおいたまま、フジテレビの制作部で働いてました。フジテレビには大学は中退したって嘘をついて契約社員として。

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残間
やはりクリエイティブな方面に。でも契約社員って、ただのバイトじゃなかったんですね。

高橋
バイトだと給料が安いんですよ。中退っていうのは経歴詐称だけど。
それで1年半ぐらいやっていたら、正社員になれって言われたんですけど、何か物を書きたくなったんです。

残間
それまで小説を書いたことは?

高橋
親父が同人として参加していた「作家」という同人誌で、一度、27枚の短編を書いたことがありましたけど、それっきりでしたね。

それでアメリカでの生活をエッセイに書いてみようかと、フジテレビを辞めて2ヶ月くらいかけて書いたんですよ。『シスコで語ろう』という作品なんですが、文藝春秋に持ち込んだんです。すると、面白いけれど無名の人の本は出せないって言われて、突っ返されました。しかもその編集者、僕の原稿の上に足を載せてました。デスクの下で。
クソーッと思いました。それが編集者のやることかと。帰り道、向かい風の中で、ちょっと涙出ましたよ。23歳の時でしたね。

残間
原稿に足を。それはひどいですね………
その後、早稲田大学を辞めて、東京スポーツ新聞社に記者として入社します。こちらではどんなことを?

高橋
風俗記事ですね。『団地妻、濡れた欲情』とか(笑)。特報部だから何でもありなんです。

残間
東スポで風俗記事! 取材に行って書くんですか?

高橋
半分取材で、半分いいかげん。だって一面を毎日二人で書いていたんだもの。いちいち取材やってたら無理でしょ。でも、自分には合ってましたね。
東スポは最初はフリーライターでした。僕、組織に入るのが嫌だったんです。早稲田を辞めたのも、このまま卒業したら組織に入っちゃうっていう恐怖感があったんです。

残間
早稲田は学費未納で除籍でしたっけ?

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高橋
大学に頼みに行ったんですよ。一年くらい休ませてくれよと。でも休学しても学費は納めなきゃいけない。じゃあ辞めると言ったら、ならばこれまでの未納分を払えって言うんです。中退するにもお金が要る。
それでこのまま払わないとどうなるの? と聞いたら“抹籍”だと。どういうことだと思ったら、大学に入った証拠がなくなりますと。だから僕は正しくは早稲田大学中退じゃないくて、早稲田大学抹籍。

残間
あの頃、除籍になった人はカッコいい人が多かったですけどね。

高橋
“除籍”は警察に捕まった人たち。ゲバ棒振り回したり、刑務所に入ったりね。でも辞めるって決めたんだから、どっちでもいいじゃない。

残間
そして東スポ時代に書いた『退屈しのぎ』が、群像新人文学賞を受賞します。ここで小説家でやっていこうという気持ちが固まったんでしょうか。翌年には東スポを退社して、本格的な文筆活動に入ります。

高橋
『退屈しのぎ』は非常に乾いた小説で、書き上げた時は不遜にも「これは日本ではダメかな」と思っていましたね。実際、賛否両論でした。

それで書くという行為ですが、これは自分が一番気分が落ち着く道だなと思いました。楽しいのとはちょっと違うんです。でも僕は、放っておくと何か書き出してしまう。人の行動や考えを文章で描写してしまう。自分に向いてると感じました。

野心はないんですよ。何がなんでも文学賞を取ってやろうとか。でも新人賞は世間に出て行く方便なので、応募しました。前に持ち込んだ時に、無名はダメと言われましたからね。

残間
そして30歳の時には『九月の空』で芥川賞を受賞しましたね。作家だったお父さんは喜んだんじゃないですか?

高橋
と思いますよ。直接は話をしていませんが、自分でエッセイに書いてました。賞をとった時、石川達三さんから手紙をもらって、「今度、芥川賞を取った高橋三千綱君というのは、君の息子だそうだね。最高の贈り物だね」とか書いてあったみたいです。
母は仏壇の前に座って泣いていたそうです。



(つづく)

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前編 僕に日本は合わない

後編 ほったらかし療法でガンが消滅


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