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映画に魅せられて 1/4

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かつてテレビドラマで人気を博し、映画では数々の名作に出演してきた奥田瑛二さん。近年は、監督としての活躍もよく知られるところです。作品が国内外の映画賞を獲得し、「僕の天職は映画監督」と断言するほど。そんな奥田さんに、映画にかける思いを伺いました。(残間)
奥田瑛二さんのプロフィールはこちら
(聞き手/残間里江子 撮影/岡戸雅樹 構成/髙橋和昭)

vol.1 死ぬまでカメラを回していたい


残間
奥田さんにはこのコーナーで、10年前にもお話を伺いました。そろそろお互い還暦というタイミングでしたね(奥田さんと残間は同い年)。ということで、来年、オリンピックイヤーの2020年には古希となります。

奥田
僕らは1950年生まれだから、ちょうど区切りがいいですよね。

残間
すぐ計算ができます。2040年は日本の高齢者人口がピークを迎えるそうで、5人に1人が65歳以上。私たちが90歳の時です。

奥田
実は、僕は5〜6年前に98歳で死ぬって決めたんです。

残間
決めているのですか?

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奥田
その前は92でした。というのは映画監督の新藤兼人さんが、100歳でお亡くなりになったのですが、あの方は死ぬまでカメラを回していました。僕はそのことをとても尊敬していまして、新藤さんが95歳になった時に92で死ぬと決めて、それで100歳になられた時に、僕は98まで生きることにしました。
なぜ新藤さんの歳を超えないかといえば、尊敬する先達を超える年齢を生きたいけれど、それはいけないだろうと〜(笑)。

で、98歳になっても監督はできるんですよ。ところが俳優は無理です。
立っているだけならいいですよ。それで「おはよう」「こんにちは」「どこ行くんだい?」「あそうか」というセリフを細切れに言うのなら。でも身体を動かして芝居をやるというのは、男性の場合だと80歳ぐらいまでかなぁと。

映画監督というのは、感覚だし感性です。それでいったん身体に染み付いた映画の方程式というのは、忘れることはないじゃないですか。僕は映画監督が天職だと思っていますから、だったら98歳までやれるだろうと。


現場で即断即決できなければ、監督はやれない


残間
奥田さんの初監督作品は50歳の時だったと思いますが、そのだいぶ前から監督になるべく、計画的に始めたと聞いています。最初は熊井啓さんに師事したとか。

奥田
僕は役者として熊井啓さんの作品に6本ぐらい出ているのですが、言ってみれば、熊井啓さんで監督としての教養学部を済ませて、その後、神代辰巳監督で専門課程を過ごした感じですね。
その後の研究課程としては、自分で映画の企画を立てて、プロデューサーをつけてお金を集めて、それで若い監督に任せた上で自分が主演をやりました。たとえ規模の小さい低予算の作品であっても、共同制作になりますから、現場で自分も制作側でやるのと同じになるんですよ。それを5年やったところで45歳ぐらいになっていましたね。
さらにそれを応用して、哲学的・文学的要素を持った形で、映画という方程式に自分で答えが出せるようにしよう、みたいな心積もりでした。それで最初に自分で映画を撮ったのが50歳。

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残間
そこは慎重すぎるほどに慎重だし、謙虚ですよね。何となく、さらっと映画監督の椅子に座る方もいますから。

奥田
それはダメですよ。というのも映画監督というのは、役者からでもスタッフからでも何か質問をされた時に、即断即決ができないといけないのです。
グランドデザインがある上で自分のアイデアが必要だし、そこにイズムもないと映画という作品になっていきません。そこのところで自分が自信満々になってクランクインしないと、僕はダメだという思いがあります。迷いがあってはいけない。

自分は俳優としていろいろな監督の作品に出させてもらって、その振る舞いをずっと見てきたわけです。優れた監督というのは常に即断即決。パーン、パーン、パーンと決めていきます。それで妥協することは一切ない。妥協したとしても天気ぐらい。
唯一、天気にも妥協しなかったのは黒澤明さんですよね。ひとつの雲で1ヶ月待つんですから。

残間
その度にセットを全部バラしてね。

奥田
僕はそういう方法論なんです。映画に出たことがあるから自分でも一本やってみようじゃなくて、人生、映画監督って決めたら、生涯作品を撮れる監督でありたい。

何となく映画を撮ってみた人って、たいてい1本か2本で終わります。やっぱり3本、5本撮り続けていって本物。僕は3本撮らなきゃ監督って言うな、って思っています。


実は最初にハマったのは政治の世界


残間
今では奥田さんというと監督の印象が強まっていますが、最初に目指したのは役者です。でも、お父さんが愛知で市会議員をやっていて、政治家になれっと言われていたのですよね。その修業で上京後は国会議員の秘書もやったとか。

奥田
ええ、やりましたね。父との約束で、自民党代議士の書生になることを条件に上京させてもらいました。代議士先生の部屋住みでした。本心は映画俳優になりたかったんですけどね。
ところが政治がことのほか面白くて、夢中になっちゃったんですよ。

残間
意外ですね。奥田さんにそんな面があったとは。

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奥田
18歳で選挙カーに乗ったり街頭演説やったりしましたね。
ある選挙の時に、当時外務大臣だった三木武夫さんが、僕の先生のところに応援演説に来ました。ところが地元の市会議員や県会議員の先生は、誰も三木さんを招き入れる演説をやりたがらない。みんな怖がっちゃって。
それで第一秘書の人が18歳の僕に、「だめだな。誰もやる人がいない。君やれ」と。

残間
ええっ! 18歳ですよね。

奥田
どれくらいやったらいいですかって聞いたら、20分って言うんです。

残間
長いですね。

奥田
わかりました、僕やりますって言って、ミカン箱の上に乗りました。マイクを握って「みなさ〜ん!」とやりましたよ。

残間
すでに役者みたいなものですね。

奥田
まさにそう。一人芝居ですからね。
「ほうら見えてきた! あれが三木外務大臣が乗った黒いクルマです!」とか言っちゃって(笑)。大拍手でしたけど。まあ、そういうこともあって夢中になったんです。

残間
代議士の秘書は嫌々やってたと思ってましたが、そうではないのですね。

奥田
楽しかったです。政治って魔法みたいなところがありますから。ただ、そういう場所で頑張っていると、良くも悪くも18、19の自分の背筋が伸びてくるんですよ。
「今、先生は会議中ですので、陳情の方はそちらでお待ちください」なんて生意気なことを平気で言うようになる。すると目線がズレてくるというか、自分の思考形態がズレてきたことに、ある時、気づいたんですよ。その時に「いかん!」と思いましたね。

残間
そのまま進んでしまう人も多いのでしょうね。心地良さもあって。

奥田
でしょうね。でも、「俺が東京に来た意味はこれではない! 俺は映画俳優になるために東京に来たのに、これではダメだ! と思って議員先生の家を飛び出ました。そこからが俳優としての出発になりましたね。



(つづく)

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vol.1 死ぬまでカメラを回していたい

vol.2 振り返れば、全てが宝物

vol.3 娘たちのこと
  ↓
vol.4 主演映画『洗骨』
 

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