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次の世代のために、デザインができること 1/3

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重厚長大なものが多かった建築の世界に、軽やかで繊細という、新しいテイストを提案した妹島和世さん。建築界のノーベル賞と言われるプリツカー賞を始め、その作品は海外でも高く評価されています。そんな妹島さんがどんな風に建築の世界に惹かれていったのか、そして次に目指すのは。短い時間でしたが、楽しいおしゃべりでした。(残間)

妹島和世さんのプロフィールはこちら

vol.1 子供の頃に見た、一枚の住宅の写真
vol.2 ひとつの作品をきっかけに、世界へ
vol.3 若い人の役に立ちたい
(聞き手/残間里江子 撮影/岡戸雅樹 構成/髙橋和昭)
vol.1 子供の頃に見た、一枚の住宅の写真


残間
今日はよろしくお願いします。
妹島さんには、以前、『willbeアカデミー』の講師をお願いしたことがありましたね。話題になった『金沢21世紀美術館』(2004年/SANAA=西沢立衛氏との建築ユニット)を中心に、興味深いお話をしていただきました。
今や世界的な建築家となった妹島さんですが、やはり小さい頃から建物には興味があったんでしょうか。

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『金沢21世紀美術館』
https://www.kanazawa21.jp/data_list.php?g=36&d=1


妹島
そんなことはなかったですね。ただ、たしか10歳ぐらいの時、母が毎月読んでた『婦人の友』という雑誌に、菊竹清訓さんの住宅の写真が載っていたのを覚えています。「これが家なのか」と強い印象がありました。

残間
何かで読んだんですが、小さい頃、お人形さん遊びの時に、空間づくりをしていたとか。普通は、人形にいろんな服を着せ替えるところに、興味が行くものですけど。

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妹島
ダンボールとかで部屋作ってましたね。学校だとすると、図書室があるなとか。スペースに加えてストーリーつきでやってました。

残間
やはり絵や工作が得意だったんですか。

妹島
全然です。ですから建築学科を受験する時に苦労しましたよ。ただ、文系ではなかったですね。国語とか、さっぱりでした。
この文は何を指しているかとか、さっぱりわかりませんでした。今から考えると、どうしてできなかったのかと思いますね。それぐらい、やれてもいいはずのなのに。

残間
文化系に強いのだとばかり思ってていました。
漠然とでも、何か仕事をしていくとは思っていました?

妹島
それもあまり思ってませんでした。しかし母が、女性でも何かやれた方がいいんじゃないか、という考えでしたね。
うちの母は戦争とかがありましたから、自分があまり社会に出て行けなかったことを残念に思っていました。

残間
お母さんは仕事をしていらしたんですか?

妹島
仕事としてはしていませんでしたが、いろいろやっていましたね。
大学にも行っていないのに、裁判官か何かの試験に独学で合格してたんです。結局、それは結婚したのでやらなかったんですが、結婚後は病院ボランティアを立ち上げたり、まだボランティアなんていう言葉もない時代に、自分で始めたんです。何十年か続けたことで表彰されてもいました。
その他にも福祉関係や、カウンセリングなんかも自分で勉強して。英語も1年間、学校に通ってましたし、まあ、努力家でしたね。

残間
へえー、すごいですね。お母さんは社会に対する目を持っていたわけですね。『婦人の友』も毎月読んで。

妹島
それから父は日立製作所の技術者だったんですけど、父も、女の人も働いた方がいいという考えでした。
ですから「和世」という名前も、社会に出た時に、男か女かわからないように、という意図があったらしいんですよ。小さい時に聞いたので、私の記憶が正しければですけれど。

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残間
名前の時点で、女性という先入観を持たれないようにというわけですね。
では大学受験を迎えた時、建築という選択をしたのは?

妹島
うーん………これでもない、これでもない、という消去法で。

残間
何か具体的にやりたい職業はなかったんですか。学校の先生とか。

妹島
それもなかったですよね。
まず理系でしたが、医者ではないなと。研究者というのも漠然としていてイメージが湧かず、工学部ともいうのもなあ………と考えているうちに、建築に行き当たった感じです。そういえば、小さい頃に興味をもったんだから、やってみようかと。

残間
それで女性建築家の登竜門とも言われる、日本女子大学家政学部住居学科に行くわけですね。

妹島
いえ、最初は北海道大学を受けたんですよ。

残間
北大に行きたかったんですか。

妹島
ちょうど札幌オリンピックの少し後ぐらいで、その頃、アイスホッケーにすごく興味があったんです。それでアイスホッケー部があるのは北大だと(笑)。

残間
アイスホッケーって………自分でやるつもりだったんですか?

妹島
マネージャーでも何でも、とにかく関わりたかったんですよ。でも落ちてしまいました。それまで気楽に生きていたせいか、落ちるということを考えてなかったんです。さらに当時あった国立二期校というのにも落ちまして。
それで私立の中で、日本女子大にこういう学部があるということで、受けておいたんです。

残間
日本女子大はいかがでしたか。

妹島
今は違うと思いますけど、当時はあまり大きな建築はやってなかったです。住居が中心というか。せいぜい集合住宅や地域センター、美術館どまりで。近くにあった早稲田大学の方は、3年生ぐらいから、どんどん大きな建築をやってましたが。

残間
そのまま大学院に進むわけですが、さすがにその頃は建築家になろうと思われたのですね。

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妹島
そうなんですけど、まだ、働くのもどうかな………みたいなことを考えてましたね。

残間
でもご両親は、建築の道に進むことに理解はあったわけですよね。

妹島
ええ。ただ、学費は出すけど、大学院からは、もうお小遣いはあげないと言われました。それでバイトが始まるわけです。

残間
そこで当時、新進気鋭の建築家だった伊東豊雄さんとの出会いがあったと。

妹島
その前に磯崎さん(磯崎新氏)のところでたまにバイトをさせていただいてました。
明日プレゼンなのに、模型が間に合いそうにもないという時などに前日の夕方お電話をもらって、それで朝まで手伝って、バイト代をもらって帰ったわけです。1日とか、1日半のバイトをちょこちょことやっていました。

残間
今思えば、すごい人たちのところでアルバイトをしてたんですね。

妹島
それで磯崎さんのところに行っていたら、伊東豊雄さんの『中野本町の家』の見学に誘われたんです。伊東さんのお姉さんの家ですね。すごく好きな家だったので、もちろん連れて行っていただきました。
すると行ってみると、偶然なんですが、ちょうど伊東さんが長期バイトを探していらしたんです。JALのチケットセンターのコンペを取られた時で。それで手を上げまして、今度は月ぎめのバイトをすることになりました。
バイトの方が楽しいので、学校よりもバイトばかり行ってましたね。


main photo 
『中野本町の家』
http://www.toyo-ito.co.jp/WWW/Project_Descript/1970-/1970-p_04/1-800.jpg


残間
それで大学院卒業後は、本格的に勤めるわけですね。やはり、伊東豊雄さんの作品テイストに波長があったと? でも、温厚そうに見えますが、伊東さんって怖い方って聞きますけど。

妹島
今はだいぶ柔らかくなられたと思いますが、私が勤めていた頃は、本当に怖かったです。
当時は表情も暗くて、人と目も合わせない。だから打ち合わせの時は、どこを見て喋っていいかわからなかったです。

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残間
(笑)その頃、伊東さんの事務所には何人ぐらい働いていたんですか。

妹島
私がいた頃は4〜5人ですね。ですから、本当に緊張感でピリピリしていました。
ただ、伊東さんはとてもリベラルな方でもありました。それに、事務所の規模が小さいというのがありました。一対一で向き合える。だから怖いんですが………

残間
怒鳴ったりはしないんでしょ?

妹島
そこがよけい怖いんです(笑)。静かにバッサリという感じで。
それで怖いは怖いんですけど、真面目に考えたことについては、学生でも上のスタッフでも、自分はこう考えると意見をきちんと言ってくれました。そういうところがすごく面白かったし勉強になりました。私は出来が悪かったので、怒られ続けてましたけど。
でも、伊東さんが怖いので、自然とスタッフの結束は強くなって、当時の同僚とは今でも仲良しです。

残間
30歳の時に独立するわけですが、伊東さんの事務所には、結局、何年いたんですか。

妹島
6年です。

残間
建築家が独立する時って、どういう感じなんですか? ある日、師匠に呼ばれて、君、そろそろ一人でやっていけるんじゃないか、という具合なんでしょうか。

妹島
伊東さんの事務所は、それまでみんな5〜6年で辞めていたんです。
伊東さんからは何も言われていませんでしたが、みんな5〜6年経ったら、あるいは30歳くらいになったら出て行って自分でやる、みたいな雰囲気があったんですよ。それで、いよいよ私の番だなと。

「辞めます」と伊東さんに伝えると、聞かれました。普通は辞める時は何か理由があるだろうと。私は「いや、理由はないんですけど、そろそろ的に………」みたいな感じで答えていましたね。

残間
(笑)

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妹島
もっとも私が辞めたら、そこから急に伊東さんの仕事が忙しくなったんです。辞めた後も、失業保険とか、何度か手続きで元の職場に行くじゃないですか。それで行く度に大きな仕事が入っていて、スタッフも増えて行く。それまでは一千万の住宅が年に一度あるかどうかだったのに。

残間
独立した時の事務所はどんな感じだったんですか?

妹島
一人ですよ。インテリア関係の人たちと、高輪台のマンションの一室をシェアしてやっていました。電話を3本引いて、互いにスタッフもやりながらです。そうやって1〜2年ぐらいやっていましたね。

残間
今だとシェアという感じですが、昔は私の周辺でも、スタイリストやカメラマン、コピーライターが共同で事務所を借りて、互いに仕事も手伝ったりして。

妹島
まさしくそれです。

残間
営業はどうしたんですか?

妹島
じっと待ってました(笑)。
と言っても、当時はバブルの末期で、私のところにも仕事の話は来たんですよ。ただし、もうバブルが弾け始めていましたから、来るのは危ない話ばかり。ちゃんとした話は、前から事務所をやっていた、実績のある人のところに行くわけです。

ちょっと人間不信になりましたね。さあ、これで明日、契約しましょうということになったのに、次の日にはもう誰も電話に出ないとか。そういうのが結構ありました。

残間
あの頃、賭けに出て、敗れた人がいっぱいいましたから。………ということは、なかなか現金収入には至らないことが多かったのでは。

妹島
そうなんです。大変でしたよ。いろいろ動きはあるんだけど、お金は来ない。それで動くと、お金は出て行く。年末に2万円ぐらいしかない時があって、気持ちが暗くなって、「もうダメだ」という感じでしたね。よっぽど、伊東さんのところに戻ろうかと思いましたもの。

残間
そんな苦難の時代があったんですね。



(つづく)

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