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“美味しさ”に込められたメッセージ 1/4

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『世界のベストレストラン50』に常にランクインする南青山の『NARISAWA』。そのシェフである成澤由浩さんは若くして欧州に学び、日本で独自な境地を切り開きました。しかしその目指すところは、単なる美食ではありません。食をアートと捉え、日本の里山文化や環境に対する問題意識を、料理という形で世界に発信しています。成澤シェフはいかにして生まれたのか。その秘密を伺ってきました。(残間)

レストラン『NARISAWA』のオフィシャル・ウェブサイト
(聞き手/残間里江子 撮影/岡戸雅樹 構成/髙橋和昭)

vol.1 異文化に魅せられてアジア、アメリカ、欧州へ


残間
実家が元々、飲食店だったそうですね。常滑市(愛知県)のご出身ですが、どんなものを売る店だったのですか?

成澤
パンとかケーキですね。イートインもやってました。サンドイッチとか簡単な料理も出す、喫茶店の延長みたいな店でしたね。祖父の代からの店です。

残間
そこで働くお父さんの姿を見て育ったと。

成澤
ええ。そこで生まれ育ちましたから。
父は毎朝、3時に起きてましたね。うちの父親は少し変わっていて、仕事はまず近所の掃除から始めるんですよ。家の前だけでなく、すごく広い範囲を掃除するんです。どうしてなのか聞いたこともないですが、変わった親だなとは思っていましたね。

残間
ちょっといい話ですね。自分の家の前だけじゃないというのは。
生まれ育った常滑市はどのようななところでしたか。

成澤
すごい田舎ですよ。海が近くて、イナックス(現・リクシル)という大きな会社があって、今も焼き物の町です。

残間
そんな常滑の町で生まれ育った成澤さんが、料理人を目指してヨーロッパに渡ることになるのですが、いつもお料理をいただくばかりで、この辺のことはちゃんと話を聞いたことがなかったですね。順番に伺いましょうか。

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生まれ故郷が全てじゃないと気がついた


成澤
元々は特に食の世界に強い意識はなくて、外国への興味が先です。中学生の時に初めて外国に行きました。青年派遣団みたいなものに参加しまして、タイ、ビルマ、バングラデシュを回りました。

すべてが驚きでした。当時はインターネットもなくて外国の情報というものがない。それに常滑は田舎ですから、街を歩いていても外国人とすれ違うこともなかったです。もっと言うと、その派遣団は全国から中学生が参加していたのですが、日本の違う都道府県の人と触れ合うのも初めてでした。
ですから青森や大阪から来た子の訛りに驚きましたね。でも自分も訛っているんですが、そのことに気づいていない。自分は標準語を喋ってると思っているわけです。

残間
(笑)

成澤
それくらいの井の中の蛙が、いきなり外国に行った。

残間
当時の東南アジアというと、かなり厳しい状況だったんじゃないですか。

成澤
すごいショックでした。
タイから入ったんですが、まず普通に行っても空港の税関を通れないんです。日本から百円ライターを持って行って、それを係官に渡さないと通れない。要するに賄賂です。それを見てびっくりしましたね。空港も国際空港とは思えない簡素さでしたし。

それから一番注意されたのが、子供の頭を触るなということ。いくら可愛い子でも触っちゃいけないと。それからどんなに人が集まって来ても、物をあげちゃいけないということ。
とにかく次から次へとショックを受けてましたね。「え! 何それ」という感じで。

残間
頭には神様が宿っているんですよね。後から考えると“異文化体験”ということなんですけど、その時はわかりませんから。

成澤
もう何が起こっているのかがわからない。それまでの15年くらいの人生が、世の中の全てだと思っているから、何を見ても「ここは地球か?」みたいな。
あちこちに犬がいるのですが、これが骨と皮だけで歩くのがやっとという感じ。それで道端には骨と皮だけになった牛が死んでいる。
とにかく、その時に知ったんですね。「ああ、常滑が全てじゃないんだ」って。

残間
それは原体験としては大きいですね。

成澤
大きかったですね。
それで公用語が英語なんですが、それまで勉強してきた英語がまったく通じないということに気づきましたし、英語が喋れないとコミュニケーションが取れないということもわかりました。もともと語学は好きだったのですが、日本に帰って来てからさらに興味が湧いて勉強しましたね。それから世界史。

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アメリカで意識させられた、日本人としての自分


成澤
それで高校に入ってから、今度はアメリカに行く機会がありました。常滑に来ていたアメリカ人研究者と偶然、知り合いになりまして。テネシーのメアリーさんという女性だったんですが、アメリカに来たいのなら、家に泊めてくれると。

ちょうどアメカジブームの頃で、アメリカには興味があったんです。それで高校の夏休みの1ヶ月間、まるまるアメリカで過ごしました。それも一人で行ったんです。
テネシーに行くにはシカゴで乗り換えだったのですが、この乗り換えに苦労しました。だだっ広い空港でね。乗り換えに8時間もあったのに、ギリギリでやっと乗れて、冷や汗をかいたのを覚えています。

それで最初、テネシーのメアリーさんのお宅にいたんですが、政治家の親類がニューヨークにいるので、そちらにも行ってみたらと。部屋もたくさんあって泊まれると言われて、次にニューヨークに行きました。
当時のニューヨークはとても危なかったのですが、怖いもの知らずで地下鉄とかセントラルパークとかSoHoとか平気で行ってましたね。楽しかったですが、ここでもカルチャーショックを受けました。

残間
アメリカはいかがでしたか?

成澤
僕は島国を離れて大陸に渡ったわけですけど、すごく安心感に包まれている自分がいました。というより、よくもあんな小さな島にいたものだと思ったのを覚えていますね。

残間
大陸が自分に向いていると。

成澤
ええ。ただし、泊めてもらった家庭はすごくいい人たちだったんですけど、僕はその時、「この子、可哀想だな」という目で見られてると、正直思ったんですね。アジアに行った時とは、また違う感覚。白人がアジア人、黄色人種を見る目。これもカルチャーショックでした。

それでアジア、アメリカと来て、今度はヨーロッパも見てみたくなりました。料理というより、最初はそんな軽い気持ちだったんですよ。

残間
ともかくも高校卒業後から、いよいよヨーロッパでの料理修行に入るわけですね。

成澤
高校を出た後は、一年くらい大阪の専門学校で日本料理を勉強しまして、それからですね。
通っていた専門学校の伝手で最初の半年はパリで研修を受けて、それからリヨン郊外のポール・ボキューズ(ミシュラン3つ星シェフ)の店で働くことになります。 でもフランスでは完全にバカにされましたね。

残間
アメリカとは違う意味で?

成澤
もっとです。今でこそヨーロッパの人も日本の文化に敬意を払ってくれますし、日本は尊敬される国になったと思いますけど、当時はまだまだでした。1989年頃、バブルの時代ですね。
ポール・ボキューズの同僚に同い年の子がいたのですが、そいつに僕は「黄色、黄色」って呼ばれてましたから。最初はそう呼ばれてることすら気づきませんでしたけどね。

フランス語で黄色って「ジョンヌ」って言うんですけど、若造のことを「ジュンヌ」と言うんです。それで僕は「若造」って呼ばれてると思ってたんですよ。だけどこいつとは同い年だし、変だなと思ってたんです。
それである日、辞書で調べてみたら「ジュンヌ」の近くに「ジョンヌ=黄色」という単語があって、「あー、そういうことか」となったわけです。

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アメリカではそこまで露骨に言われなかったです。ステイ先は上品な人たちでしたし。ところが同じ立場で働くとなると、容赦ないわけです。
中学の時に自分が訛っていることに気づいてなかった話をしましたが、その時に初めて「あ、俺って黄色なんだ」って思ったんです。それで、こいつらは白。あと黒があるんだと。田舎者だったので、そこで実感したわけです。

でも負けず嫌いだったので、何とか馬鹿にされないようにと一生懸命仕事をしたら、研修が終わる頃にポールボキューズのトップの人に言われました。
「お前はすごく仕事ができるけれど、性格的に日本は向いてないんじゃないか。もう少しヨーロッパで修行を続けてはどうだ」と。それでスイスのレストランを紹介されたんです。
バブルの頃で、ボール・ボキューズのスタッフはしょっちゅう仕事で日本に行っていて、こちらの独特な雰囲気というのがわかっていたのですね。それで、こいつは向いてないのじゃないかと。

残間
性格が大陸的ですから(笑)。でも、どうしてスイスだったのでしょう。

成澤
当時、世界一と言われたレストランがスイスにありました。『ジラルデ』(※)という店です。その頃は僕も知りませんでしたけどね。それまで僕は料理の世界にあまり興味がなくて。さすがにポール・ボキューズは知ってましたけど。
(※ポール・ボキューズ、ジョエル・ロブションと並び世紀のシェフと言われたフレディ・ジラルデが、スイス・ローザンヌに開いたレストラン。ミシュラン3つ星)

アジアでの経験と父の教えが役に立った


残間
でも世界一のレストランもそうですが、ポール・ボキューズだって、誰でも入れるところじゃないですよね。

成澤
まったく入れません。エリートだけ。ただ僕は専門学校時代、成績が一番だったので、一番の店に行かされたわけです。
でも結局なぜ一番になれたかというと、アジアやアメリカに行って語学の大切さがわかっていたので、高校時代から自分でフランス語を勉強してたんですよ。だから言葉はある程度できました。
それから実家でずっと父親の手伝いをしていたので、キッチンの中での動きも悪くなかったんですね。父はものすごく厳しかったので。特に掃除、整理整頓。

残間
朝起きたら、まず近所の掃除をするぐらい。

成澤
料理人として一番大変なキッチンの掃除と整理整頓を、中学ぐらいの時までに叩き込まれていたのです。

残間
『NARISAWA』のキッチンがそうですよね。いつ誰に見られても大丈夫という感じ。今日は研究開発用のオフィスにお邪魔していますが、お隣にあるキッチンも清々しいほどの整頓ぶりです。使ってない時は全く何も物がないのですね。


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研究開発用のオフィス


成澤
それが小さい頃から当たり前だったので、ヨーロッパの最高峰の店に行っても何でもなかったですよ。
それでスイスのジラルデで働くことになりました。電車で行って、着いたその日からコックコートに着替えて仕事しましたね。ここには2年いました。

ただジラルデはもう虎の穴のような店でして、僕はストレスとプレッシャーで胃に穴が空いたぐらいです。血も吐きました。一度、いったん日本に帰って病院で診てもらいましたけど、その時に医者に言われました。
「あなた、何の仕事をしているのですか? こんなにストレスで穴が空くことってないですよ」って。いえ、料理人ですがと答えると、絶句してましたね。でもその分、僕はすごく仕事ができるようになっていました。


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成澤さんの手


残間
認められたわけですね。で、その次にイタリアですか?

成澤
ええ。ジラルデがイタリアの食材をよく使っていて、僕もその味や香りが気に入ったのでしょうね。それでイタリアに行きたくなりました。でも、その前にいったん南仏のサントロペに行きます。

モナコのアラン・デュカス(史上最年少33歳でミシュラン3つ星を獲得)がまだ2つ星で、これからさらに勢いを増そうとしていた頃です。そこで働かせてくれとお願いしに行ったら、モナコはビザの問題が厳しくて難しいと。それで当時、アラン・デュカスがサントロペにも店を開いていたので、そこならいいよということで半年間働きました。

そのサントロペの店のオーナーが大金持ちのスイス人でして、船を持ってたんです。豪華客船です。そのオーナーから「君はフランス人3人分の仕事をする。君に船でシェフをやって欲しいから、船に乗ってくれ」とオファーを受けたんです。

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残間
へえ、すごいですね。まだ成澤さんは20代前半ですよね。

成澤
でも僕はもっと学びたいという気持ちがあったので、シェフにはなりたくないと断りました。現場のトップになると学べないと。するとオーナーは、いいから一度船に遊びに来てと言うので船に乗ったら、船が動き出したのです。もう戻れない。

残間
(笑)

成澤
結局、船つきのシェフとして、地中海を回ることになります。

残間
それはどんな船だったのですか?

成澤
15組30人しか乗せない超豪華客船です。すべての部屋のデザインが違いましたね。でも結果的に船に乗ったことで、僕の中のヨーロッパが広がりました。モナコからジブラルタル海峡を渡って、ポルトガル、スペイン。

スペインはちょうどセビリア万博の頃でした。お客さんを船から降ろすと僕たちはフリーなので、市場に行って食材を買い込んだりしましたね。初めてのスペインとの出会いでした。
それからポルトガル。リスボンは当時、少し荒れていましたが、本当に食が充実していました。ヨーロッパでも、こんなに違うのかと思ったものです。

残間
料理人になるというよりも、ヨーロッパを見たかったと言ってましたが、さすがにその頃になると、シェフをやることに肚(はら)が決まっていた感じでしょうか。

成澤
うーん………まだ半々ぐらいでしたかね。それよりも僕はその頃、すごく自由な気持ちで生活できていて、料理なんていつでも辞めればいいやとさえ思っていました。多分、僕は、料理というよりも文化を学びたかったのでしょうね。
だから僕は、“食べる側”に立つことをすごく意識していました。ありとあらゆるレストランに食べに行きましたね。

それからオペラ、バレエ、いろんなものを観に行きました。そしてファッションも。別にどれも詳しくはないのですが、要は人が好きなのです。ファッションならファッションの世界で、面白い人がいて、それを見るのが好き。
僕は異業種の人が好きで、パリにいる頃は、よくファッション・ショーにも行きました。その時に出会ったカメラマンやヘアメイクの人とは、今も仲がいいです。

残間
日本では一時、シェフブームみたいな時代がありましたが、それとは全然違う世界にいたのですね。

成澤
今でもそうですけど、僕は休みになると異業種の人に会いたくなります。料理の世界は自分で研究して、毎日向き合っているじゃないですか。やっぱりそうじゃない人たちの意見とか、話を聞くのが面白い。

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自分は日本人。ならば日本の食材、文化で勝負すべき


成澤
話を戻すと、船のシェフを辞めた後、やっぱりイタリアに行きたくて、当時一番と言われたミラノの店に働きたいとお願いしたら、すぐに来てくれと。結局、イタリアには2年半いました。

イタリアの水は自分にピッタリ合いましたね。その頃にはもう英語は忘れかけてまして、フランス語は話せましたが、もう一気にイタリア語になりました。最終的には店のオーナーに後を継いでくれと言われましたし。

残間
本当ですか?

成澤
オーナーの息子がダメ息子で、マウリッツィオという僕と同い年なんですけど、母親が僕に毎日愚痴るわけです。マウリッツィオはダメだと。僕がイタリア語が全くわからない時から、毎朝一時間ずうっと話しかけてくるのです。こっちは早く仕事したいのにと思ってるのに。

でもまあ、そのおかげでイタリア語が話せるようになったのですが。それで僕が辞めると言ったら、「あなた、ここ継いでくれない?」って言われたのです。さすがに、それは無理ですと断りました。

残間
そして26歳の時に帰ってきたわけですね。そろそろ日本でという気持ちが固まったからでしょうか。

成澤
いろんなヨーロッパの町に行ってみて、しかも当時のヨーロッパは今よりもっと地域色が豊かで、人々はみんな自分の土地を愛していました。それで、ふと我に返ったら、あ、俺、日本人だなと。
ヨーロッパのシェフたちは、その土地の文化や食材を愛していて、それを料理として表現して、それを求めて世界中から人が集まってくる。だから日本人の僕がこのままヨーロッパにいても、その先はないと思ったのです。それで、まず日本に帰ろうと思いました。

ただ、8年間ヨーロッパにいたので、日本のことはまるでわからなくなっていましたね。浦島太郎ですよ。日本の料理業界のことは何にも知りませんでした。しかも帰るとこが常滑という田舎ですから(笑)。とにかく1993年、バブルが終わった頃に帰ってきました。



(つづく)

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vol.1 異文化に魅せられてアジア、アメリカ、欧州へ

vol.2 最初はカセットコンロで始めました

vol.3 『土のスープ』にこめられたメッセージ
  ↓
vol.4 森と人との関わりを思い出して欲しい
 

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