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ちょっとだけ無理して、さらに前へ 2/3

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vol.2 『エビータ』で女優の覚悟を決める


残間
「劇団四季」というのは画期的な劇団で、当時、役者というと食べられなくて、夜中にバイトをしてという感じでしたが、四季は株式会社にして、基本給をきちんと出していましたよね。劇団員が食いっぱぐれないようにしようと、浅利慶太さんが新しい仕組みを作りました。
だけど芸能や芸術を志す人って、基本的には「個」を突出させたいのに、個性を出すことはどちらかというと禁じられていた感じでしたよね。

久野
そうですね。個性はころしてましたね………

残間
個性を出したい人は辞めて行くわけで、あの頃は浅利さんも若かったからでしょうけれど、出て行った人には冷たかったですよね……。
あなたが四季を辞めた後に、一時、私の事務所に身をおいたのも、私が芸能の世界とは直接、関係がなかったからですよね。

久野
そうでした。他の芸能関係の事務所は浅利さんに遠慮して、尻込みされてましたから。

残間
あの時、私は一応、浅利さんのところに挨拶に行ったんですよ。

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久野
え、そうだったんですか。

残間
そう。浅利さんに、「久野さんはこの度、退団して、しばらく私の事務所に籍を置きます」と言ったら、「君じゃ、しょうがないな。よろしく頼むよ」という感じでした。その頃、「劇団四季」は、稽古場を横浜のあざみ野に移していて、ついでにいろいろと見学させてもらいました。

この人はすごいなって思ったのは、私を案内して浅利さんが稽古場に入っていくと、劇団員がサッと稽古をやめるわけです。すると浅利さんは、その場で一番下手だったり、あまり容姿がよくない女の子のところに行って、「お母さん、病気の方はどう?」とか声をかけるわけ。

久野
ホントに?

残間
するとその場にいる、一番きれいで、私こそが先生のお気に入りよね、って思っていそうな女の子が、どっと嫉妬の炎を燃やすというか、そんな風に見えたんですよ。これ、計算してやっているのかなぁと……

浅利慶太さんは怖かったですか? 何か本番直前にすごいカミナリが落ちたことがあるとか、以前、聞いたことがありますけれど。

久野
最終の舞台稽古が終わり、あと20分ほどで初日の幕が開くという時でした。いきなり楽屋に来て、「なんでそんなメイクしてるんだ! 全部落とせ!」って言われて、ほとんどスッピンに近い状態で初日をやったことがありましたね。その他にもいろいろ………。

残間
「慣れ」を嫌うわけですね。「うまく行ってる気になってはいないか」というか、慢心を嫌う。
ある役者さんから聞いたことがありますが、本番前にスタンバイしてたら、「君、出なくていいから」と言われたとか。

久野
みんな、その洗礼は受けてると思いますね。トラウマになってる人もいるみたいで。

残間
劇団とはいえ、株式会社として運営しているから、いわゆるスターは作りたくなかったんですかね。劇団を去って欲しくないという気持ちもあったでしょうし。
だから昨日の『お別れの会』であなたが歌っていた姿を見て、私も感じるところがありました。いろいろあったでしょうけど、浅利さんがいたから久野さんの今日もあるわけですし。浅利さんはたいしたものだと思いましたよ。

久野
はい、全てを教えて頂きました。舞台に立つ姿勢とか、心構えとか、ブレない元を作って下さいましたよね。あの方はそれしか言いませんでしたし。


私に女優は向いていない

残間
久野さんは36歳で劇団四季を退団したわけですが、その前に29歳で一度、退団届けを出していましたよね。それは、厳しさに耐えられなかったのですか? それとも舞台がイヤになったんですか?

久野
稽古場で、歌ったり稽古するのは好きだったんですよ。ああでもない、こうでもないとやってるのは。でも本番のステージが怖くて怖くて。
私、女優には向いていないって思ったんです。何か別の道を見つけようと考えていました。

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残間
29歳で? もう入団して7年ぐらい経っていますよね。いろんな公演を重ねても、それでも向いていないと?

久野
私は高校生の時から、介護施設などでボランティアをしてたんですが、やっぱりああいう方面のほうが合ってるのかなぁとか……。

人前で何かやるのは向いてないと、29歳で一度辞表を出して、最後の長い旅公演に行ったのですが、ちょうどその頃に劇団の中心だった金森馨さんや越路吹雪さん、それに影万理江さんも、次々にお亡くなりになって、その混乱で私の辞表はどっかに飛んで行ってしまいました。
辞表を出した時は、「そうだよね、もう充分やったよね。『コーラスライン』も『ウエストサイド物語』もやったし」という感じで、円満に退団できそうだったんですけどね。

残間
越路吹雪さんといえば、久野さんは一時期、越路さんの付き人的なことをやっていたとか。

久野
いえ、付いていたというより、私が劇団に入ってから、越路さんが亡くなるまで7年ぐらい、リサイタルの「ダメ取り」というのをやってました。
「ダメ取り」というのは、演出家の横にずっとついていて、稽古中に演出家から出た指示をメモする役です。越路さんがどんな風にゼロから舞台を作っていくのか、間近で見られたことは、本当に勉強になりました。

残間
今なお人気の高い、伝説の女優、歌手ですものね。そんなに間近で越路さんを見ていられたなんて、凄い財産ですね。

久野
昨今の「越路さんブーム」の再来を見ながら、本当に素晴らしい体験をしたのだと思います。で、越路さんたちのお葬式が続いてバタバタしていたすぐ後くらいに、浅利さんから「こういうのをニューヨークでやってるから観てこい」と言われたんです。それが『エビータ』でした。

観たらすごくやってみたくなりました。
舞台は本当に大変でしたが、一方で、これはもう命がけ、一生をかけてやる仕事なんだと初めて思いました。

それまでは青春の武勇伝という感じだったんです。ここで苦労すると、後の人生できっと役に立つとか。

残間
修行として。

久野
ええ。でも『エビータ』で、初めて、これは仕事だって思いました。本当にそこからです。仕事だと覚悟を決めたのは。

残間
そして『キャッツ』に行くわけですね。

久野
これから日本で『エビータ』をやろうという時に、再び浅利さんに『キャッツ』も観ておけと言われて、ロンドンのウエストエンドで初演を観ました。

国際電話で「どうだった?」と聞かれたんですが、あれは最初から全員が踊るミュージカルですよね。でも中で一匹だけ踊らなくて、最後の方で一曲だけいい歌を歌うボロボロの猫がいたので「あの役ならできるかもしれません」と、言ったら、「バカ野郎、それが主役だ!」って言われました(笑)。

残間
グリザベラですよね。

久野
だって、なんの予備知識もなくて、いろんな猫が次々に出てくるし、どれが主役かわからなかったんですよ。筋もあまりわからなかったし。
それで「面白いか?」って言われて、「まあ、面白いか面白くないかと言われれば、面白いです」(笑)と答えたんですけど、最初はそんな感じでした。

残間
それにしても踊らないからグリザベラがいいなんて………久野さんならではの面白いエピソードですね。その頃も踊りは苦手だった?

久野
『コーラスライン』の時は、アメリカの先生に「向いていないね」と言われつつしごかれました。

残間
あの演目は踊らざるを得ないですよね。

久野
ええ。でも得意じゃないから、ストレスに加えて、最後の歌をきちんと歌わないといけないので、しっかり食べていたら4キロ太りました。他のみんなはしごかれて、4キロやせているんです。その差8キロ。
ひとりだけ子豚ちゃんみたいになってやってましたね。私たちが『コーラスライン』の初演でした。

残間
(笑)『ウエストサイド物語』もやっていますし、いろいろとやっていますよね。

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久野
あの頃は口を開けてると、どんどん役を突っ込まれたような感じでしたね。最初は何にも知らない子供というか、演劇知識もなかった中でやっていました。毎日、宿題の山をこなしている感じ。今思うとありがたいお話ですが。

残間
劇団四季も徐々に仕組みが変わっていきましたよね。同じ演目を東京と大阪で同時にやったり、全国に四季劇場が出来て一日に何十もの公演をやるようになって……。

久野
ええ、どんどん大きくなっていきました。それまでは、何があっても降りられなかったんです。使命感みたいなものに、縛られていた部分があったと思います。
『エビータ』の4ヶ月の旅公演で、初日の前の日、横浜での舞台稽古の時に事故がありました。舞台装置のバルコニーの階段が落ちて、私や他の役者が何人か一緒に転落したんです。私は顎、肩、胸を強く打って、顎は腫れて口がまともに動かなかったですね。腕は上がらないし。

残間
ええ! それで声が出たんですか?

久野
そこは出すんです。そのまま4ヶ月、旅公演をやりました。スポーツトレーナーの方がついてくれましたが、それぐらい代わりがいなかったんです。
私はいい方で、私の下敷きになった男優は肋骨2本ぐらい折れていました。それでも代役をやれる人がいなくて、テーピングをしてやっていました。みんな、それぐらいカツカツの状態でやっていたんですよ。

その次が、日本初のロングラン公演となった『キャッツ』です。
いつまでも続けられるようにと、専用のテント小屋まで建てられたんですけど、誰も経験したことのないロングランなので本当に大変でした。 お客様の反応で3ヶ月づつ公演期間が伸びてゆくんです。まだ行ける、まだ行けるって。

いつまで続くかわからない。千秋楽が決まらないので逆算ができなくて、自己管理が本当に大変で精神的にもボロボロになって……。
東京1年、大阪1年1ヶ月、無事にロングランが出来たところで退団しました。

その頃、自分の歌が嫌いになり、声の出し方もわからなくなってきていました。
それで知人に紹介して頂き、ニューヨークとロサンゼルスのボイストレーナーの先生にレッスンを受けようと、全てを捨ててアメリカに行きました。
とにかくリセットして、歌の勉強がしたかったんです。先のことは何も考えていませんでした。

残間
そうでした。辞めた直後は、いろいろな所に行っていましたね。



(つづく)

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vol.1 とにかく家を出たかった

vol.2 『エビータ』で女優の覚悟を決める

vol.3 今の自分に何ができるか

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