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大切なことは母に教わりました 1/3

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コーディネーターとして永く活躍してきた加藤タキさん。特にオードリー・ヘップバーンのCMコーディネートを務めたことは有名で、ヘップバーンさんとはプライベートでも親交が続いていました。一方、73歳を迎えた今も、その変わらぬ艶やかさや生き方は、シニア女性の憧れの的でもあります。そして、その美しさの秘密は、意外にも亡きお母さまとの絆でした。(残間)

加藤タキさんのプロフィールはこちら

(聞き手/残間里江子 撮影/岡戸雅樹 構成/髙橋和昭)
vol.1 母から学んだ女性としての生き方


残間
加藤タキさんって、私たちの世代(団塊世代)には、数少ない「ゆくゆくはこうなりたいな」という女性ですよね。日本には珍しいといいますか、本当に美しく素敵に暮らしてるように、私たちには見えるので。
私はといえば老いも劣化も感じて、日々同輩と、どうすればあんな風になれるのかしらと話しています。

加藤
今日の残間さん、とてもきれいですよ。

残間
そんな(笑)。

加藤
まあ最近、「人生100年」と言われていますけど、齢を重ねるということに関しては、私は母の存在が大きいですね。
人は加齢に伴って、いろいろと肉体的にも精神的にも不都合なこと、思ってもみなかったことが、どなたにも公平に訪れますよね。私はそれを一人の女性として母を間近に見ることによって、こういう生き方もあるんだ、というのを感じていました。

母がよく言っていたのは「私は100歳でも、100歳として生きているんじゃありません。いつまでも人間として生きているんです。100歳だから100歳らしくしろというのは、私は違うと思う」
つまり、いつまでも“私らしくある”ことが大事だと。

だから、もう80だから、もう歳だからとみなさんおっしゃるけど、結果的にどこかそれを言い訳にしていると思います。
母は「私は言い訳はしません。井戸端会議で愚痴は申しません」という人。それよりも90になっても100になっても「まだ私の知らないことがこんなにあったのか!」という生き方をしていました。それを日々見ていたというのは、私にとって大きかったですね。


好奇心、そして“人の役に立つ”という信条


残間
加藤さんのお母さんは(加藤シヅエ/1897-2001)、日本の婦人解放運動のパイオニアであり、同時に日本初の女性国会議員の一人です。そのお母さんが齢を重ねるにつれて、いろんな節目があったと思いますが、娘という立場でどんな風にご覧になっていました。

加藤
母が米寿(88歳)の誕生日の頃から、肉体的な衰え、本人も考えていなかったことが起こり始めました。例えばパーティや会合で外出すると、翌日ではなく二日後、三日後に疲れが出るようになったんですね。当日や翌日はやっぱり高揚感があるのでしょう。これは、そんな衰えのひとつです。ところが、それを後で面白そうに私に話してくれるのです。
「あなたね、歳をとったことがないからわからないでしょうけど、歳をとるとこういうことが起こるのよ」
要するに何事も、自分の加齢現象さえも、前向きに捉えていたのです。

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残間
好奇心が先に来るのですね。

加藤
そう、好奇心を失った瞬間から衰えは始まります。それは30歳でも90歳でも同じです。
それに加えて、「自分はいつまでも誰かの役に立ち続けたい」という姿勢が、母の気持ちを後押しし、背中が凛とした生き方につながっていたのだと思います。

母は104歳半で亡くなりましたが、その約1か月前に、
「こんなに歳をとってもみんなに良くしてもらって、ありがたいわ」と言うので、「みんながお母さまのことを大好きだからよ。歳をとってからの生き方に、私たちが励まされているのよ」と応えたんですね。
すると母が、「本当? ありがとう」と言ってから目を見開いて、「私はまだあなたのお役に立っているの?」と言いました。
私は、「もちろんよ! まだまだ聞きたい話もあるし、言い遺してほしいことがたくさんあるわ」と言うと、「そう?」と。なんといっても、母は多くの方々にとってメンター的存在でした。

でも、その少し前から、私は母の「延命措置は絶対しないように」という言いつけを無断で破って、胃瘻(いろう)の措置をしていました。
そんなある日、母に「私は今日まだご飯を食べていないわ」って言われたんですね。それでつい「お母さまは口から食べなくても、胃からちゃんと栄養が入っているのよ」と答えました。
すると母は目をまん丸にして睨むように、「私は口からものをいただかなくても、生きているということ?」って聞くので、「はい」と答えました。

母はしばらく無言で、その後に「もう疲れました」と言って、それっきりしばらく喋らなくなってしまいましたね。
それでさっきの亡くなる1か月前の話に戻ります。
「ありがとう」とは言っていましたが、本人の中では「疲れた」だったのですね。

残間
お母さんは、ずっとそのことを考えていらしたのですね。

加藤
母からはさんざん「延命治療はしなさんな」と言われていたのです。その時は寿命ですからと。でも周りの人間は一日でも、と思ってしまいますよね。特に当時14歳だった私の息子からは、「一日でも長く生きていてほしい。一緒に105歳の誕生日を迎えたい」と懇願されました。

すごく悩みましたね。延命は母の意思ではありません。それまで102歳で舌がんの手術をする時も、自分で手術を選びましたから。とにかく何でも母は自分で決断してきました。きちんと可能性を判断して。
その手術も翌週にはがんセンターを退院して、元いたS病院に戻りました。桜の季節でした。退院の翌日、母は、車椅子ごと乗れるタクシーを手配してもらい、車の窓から千鳥ヶ淵の桜を眺め、感動していました。娘ながら「この人は化け物か?」って思いましたもの。

残間
102歳でもご自分で手術を選択したというのは、すごいと思います。

加藤
でも胃瘻だけは、私が勝手にしたことを後で知って、あの時の母の顔は忘れられません。私にとって後悔といえば、それです。
ウィルビー世代の方々はもちろん、多くの方が通る道かもしれません・・・・・・

残間
親御さんが延命するなと言っても、その現場に立つと、ものすごく迷うといいますね。

加藤
そう、ものすごく迷いました。あれほどきつく言われていたのに、私はやってしまった。ただ、しなくても後悔したかもしれない。何をやっても後悔したでしょう。
ですから同じ立場の人に言いたいのは、精一杯やったのなら、自分を責めないでということですね。やはり介護は難しいですよ。育児と違って終わりが見えませんもの。

でも今でも思います。まだ生きていてくれたなら、どれほど私に“活”を入れてくれただろうかって。



(つづく)



vol.1 母から学んだ女性としての生き方

vol.2 出産の際に贈られた“言葉のプレゼント” 

vol.3 「ねばならぬ」からの解放

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