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体の変化に耳を傾けてください 2/3

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vol.2 母に乗せられ、気がつけば医師


残間
ところで常喜さんはどうして医者になったんですか? 常喜さんとはテレビの仕事やいろんなところでご一緒させていただいていますが、こういう話はしたことがなかったですね。

常喜
そこはちょっと弱いところなんですよ。まあ、母の影響というか、小さい頃からの刷り込みですね。

残間
医者になれ、医者になるといいよ、みたいな強力なプッシュがあったと。

常喜
立派なお医者さんや女医さんのところに、ずいぶん連れ回されたりしました。ほら、すごい人たちでしょ、みたいな感じで。私自身は、最初は英語の先生になりたかったんですけどね。

残間
別に実家が医者や病院だったわけじゃないんですよね?

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常喜
父は普通の会社員ですし、母は美容師でした。
母は自分がずっとフルタイムで働いていたからか、娘にも自立した女性になって欲しかったみたいですね。容貌も少し日本人離れしていて、大柄でよくロシア人に間違えられるんです。

残間
でも自立といっても、どうして医師だったんでしょう。なりたいからといってなれるものでもないですし、お金もかかるでしょうし。

常喜
私は当時としては珍しい、不妊治療を経て生まれた子どもだったんです。しかも前置胎盤でたいへんな難産でした。一時は子どもの命は諦めてくれと言われたぐらいで、なんとか生き延びた感じです。それが影響したんじゃないですかね。

母がなりたかった職業だったのかもしれません。とにかくまあ、上手く乗せられたわけです。

残間
乗せられただけでは医師になれませんよね。勉強はやっぱりできた?

常喜
できたというより私の場合、先生に恵まれましたね。小中高と桐朋学園だったんですが、戦後の初代校長の務台理作さんという方が掲げた、「人間教育」という理念があったと思います。女子教育にも戦前から力を入れていた学校でした。

残間
それで東京慈恵会医科大学に進学されます。当時だと医学部に進む女性というのは少なかったでしょうね。

常喜
女性は全体の1割ぐらいでした。それで医師になって病院勤務になっても、ほとんどが寿退社してたんです。

残間
なんと勿体ない!

常喜
今は医学部に進む女性は増えました。男女半々ぐらいだと思います。

残間
で、大学では生涯の伴侶も見つけました。

常喜
同じ医師で、しかも大学の同級生。「ツマンネー!」ですよね。
ただし私は当時から結婚しても医師をやめる気はなかったし、たぶん子どもも産まないでしょうと宣言してました。それでもいいならどうぞと。
結局、子どもは産んだんですけど。

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残間
結婚して出産もされましたが、仕事との両立は大丈夫でした?

常喜
私たちの頃は大学を出て10年間は無給でした。産休もろくになかったですし。
今でも覚えてますよ。保育園を探して渋谷区役所に行ったんですけど、「あなたは収入がないんだから、家で子育てしなさい」って言われました。それで、こっちは公立の保育園がだめなら、すぐに他を探しに行きたいのに、家庭での子育てがいかに大事かを延々と説教されまして(笑)。

結局、近所の個人でやっている保育ママさんに預けたんですが、この先生方がとてもいい方で助かりました。
まずオムツが1歳でとれました。その保育ママさんのところでは複数の子どもを預かっているんですけれど、そこでは一人でトイレができる子はスターなんですね。だから誰かが一人でトイレに行くと、みんな見に行くんです。それで「おお、スゴイ!」となるわけです。

それからある日、子どもと家にいたら、床を拭き出したんですよ。なんでかと思ったら、保育ママさんはしょっちゅういろんなところを拭いているわけです。間違っても私のマネじゃないです(笑)。
あとは玄関で靴を揃えたりとか。私が子育てするよりずっと良かったかもしれません。

残間
(笑)いろんな人と触れ合いながら育つって大事ですよね。

大学時代に話は戻りますが、常喜さんの専門は消化器内科です。なぜこれを選んだんですか。

常喜
不器用ですし、体力的に外科は無理かなと。それで皮膚科と内科を見て決めました。好きな先輩がいたというのも大きかったかも(笑)。結構イージーですよね。

それから私の大学時代というのは、急速に胃カメラや内視鏡が進化しつつあった時代なんですね。それまでの胃カメラってホースが硬くて飲みづらいものでした。

残間
はい、飲むだけで病気になりそうなやつでしたね。

常喜
しかも今のカメラはモニターで確認しながら撮りたいところを写真に撮れますが、その頃のはモニターがないから、ただ闇雲にシャッターを押すだけでした。
それが光ファイバーが導入されて、手元でモニターで確認しながら写真が撮れるようになったんですね。そこからCCD(デジカメ)になり、ケーブルもどんどん柔らかく細くなっていきました。
消化器官の治療が大きく変わる時で、可能性みたいなものを感じたのかもしれません。

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26歳で医療の現場に立つことの重さ

残間
大学を出た後は、大学病院に勤務したわけですね。

常喜
当時は国家試験に合格すると2年の研修期間があって、3年目からはもう独り立ちでした。患者さんを診察しないといけないんです。

残間
まだかなり若いですよね。

常喜
26歳くらいで命と向き合うことになりました。
患者さんによっては「あと余命3ヶ月です」とか言わないといけません。それを言ったらもう口をきいてくれなかった方もいましたね。
それから白血病と診断された患者さんは、外来にいらしたその日から長期の入院を余儀なくされます。また当時は最初の治療で亡くなる人もたくさんいらしたので、それを診断した当日に言わないといけません。きつかったです。
もう毎朝、自分に気合を入れて病院に行っていました。そうしないと行けなくなってしまいそうで……

私は今でも桜が好きになれないんです。よく重い病気になった方が言いますよね。「来年の桜は見られるのかしら」って。そして私の前には、明らかに来年は厳しいなという患者さんがいました。

担当した患者さんが最初に亡くなった時は大泣きしてしまいましたね。60歳ぐらいの男性でしたが、泣きじゃくってまともな会話すらできない状況で。本当は泣いちゃいけないんですけど、自分の無力さが情けなかったです。
遺族の方々が「先生はそんなに泣いてちゃいけない。次の患者さんが待っているんだから」って、逆に励まして下さいました。未熟な医師として忘れられない経験でした。

残間
命と向き合うことの重みですね。なかなか仕事と割り切って慣れるのは難しい。



(つづく)

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vol.1 加齢としっかり向き合いましょう

vol.2 母に乗せられ、気がつけば医師

vol.3 私は話を聞くことしかできない

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