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今が一番楽しいんです。 4/5

(聞き手/残間里江子 撮影/岡戸雅樹 構成/髙橋和昭)

Part4 岡本太郎をプロデュースする


子供でも一人前に扱ってくれた

残間
平野さんは、芸術家・岡本太郎のパートナーだった敏子さんの甥というご縁もあって、ここ岡本太郎記念館の館長という肩書もあります。こちらは元々、太郎さんの自宅兼アトリエですよね。岡本太郎という人は、平野さんにとってどんな存在でしたか。第一印象は?

平野
覚えてないですよ、赤ちゃんでしたから(笑)。ここにもしょっちゅう遊びに来てました。

残間
そうでしたね。義理のおじさんみたいなものですから。では子供の目から見て、岡本太郎はどんな風に映っていたんでしょう。
平野
世間では岡本太郎というと「芸術は爆発だ!」的なイメージでしょうけど、もちろん家にいる時はそんな風ではありません。そもそも彼は超のつくエリートですからね。ものすごく知的だし、クールな人です。

小さい頃ここに遊びに来ると、アトリエがあるし、やっぱり普通の家とは違うのはわかりました。この人、何やってる人なんだろうって。ノミみたいなものを持ってトンカンやってるので、最初は大工さんだろうと思っていました。

小僧としては当然聞くわけですよ、「ねえねえ、何作ってるの?」って。「鳥だよ」とか適当に答えてくれればいいのに、太郎はちゃんと説明してくれる。美術雑誌の取材なんかとまったく同じテンションで(笑)。たぶん思想的なことや芸術論的なことを喋ってくれてたんだと思うけど、当然、小僧にはさっぱりわからない。

残間
ちゃんと一人前の人間として接してくれたんですね。

平野
そう。それで僕がポカンとしていると、太郎は「こいつ、わかってないな」と思うから、さらに高い熱量で一生懸命話してくれるんです。言ってることは何一つわからないんだけど、嬉しかったことだけは覚えています。この人は子供扱いしなかった、ちゃんと話してくれたって。それはほんとに嬉しかったな。

同じような話を石原慎太郎さんから聞いたことがあります。彼が高三の時に横浜だったかな? デパートかどこかのピカソ展を太郎が解説するというイベントがあって、慎太郎さんも学校をサボって行ったらしいんですね。で、来場者との質疑応答になった時、太郎に噛みついた。生意気にも詰襟の高校生が。
そうしたら、太郎が口角泡を飛ばしながら、「お前の言ってることは違う」と本気でまくしたてたらしいんです。慎太郎さんは、それがすごく嬉しかったそうです。忘れられないと。
残間
わかるような気がします。

平野
とはいえ、僕自身は「芸術家・岡本太郎」にはまったく興味がありませんでした。確かに小六で万博で太陽の塔を見た時、「あっ!」と思いましたよ。僕はここの庭で太郎が太陽の塔の原型を作ってるのを見ているんです。小学校3年生ぐらいの時かな。だから「あっ!」と思ったけど、それだけです。
それをみんなは不思議がるけど、僕にとって太郎は伯父さんみたいなもの。みんなだって、自分の伯父さんがどんな仕事をしているのか、なんて興味ないでしょ? それと一緒です。

ところがある日、どうしても太郎のことを勉強せざるを得ない立場に追い込まれたんです。それは僕が、川崎市の岡本太郎美術館の展示空間を設計することになったから。僕はまだ30代半ばで、リスボン万博の日本館のプロデュースをやる少し前でした。

太郎は大阪万博のテーマ館を作った人だから、当然自分でプランニングするのだろうと思っていたんです。なにしろ自身の代表作をすべて収蔵する「岡本太郎の美術館」ですからね。いわば芸術家人生の集大成なわけで、とうぜん全霊で取り組むんだろうと。僕はせいぜいドラフトマンとして彼の意向を図面化すればいい。そう気楽に考えていたんです。

でも太郎はぜんぜん関心を示さない。どうやら昔からそうだったようで、「岡本太郎展」をやる時、学芸員が打ち合わせに来ても、話を聞こうともしなかったみたいです。「好きにやればいいよ」と。自分の作品がどう展示されようが、どう評価されようがお構いなし。








太郎と敏子からもらった素敵なご褒美

平野
それでしかたなく、太郎のことを勉強し始めたんです。知らないと設計できないから。そうしたら超絶面白いわけですよ。うわっ、こんな人だったのかと。こんな人がこんなにも身近にいて、俺は何てラッキーなんだ。いっぱい話を聞こうと。でも、僕がそれに気づいた直後に、太郎は亡くなってしまった(1996年)。残念ながら、太郎は自分の美術館を見ることはできませんでした。

残間
そういうものなんですね。

平野
結局、太郎と芸術の話をすることは叶いませんでしたが、太郎の葬儀を作り、美術館を作り、『明日の神話』を再生させ……といったように、本業であるプロデュースのスキルを使って敏子のプロジェクトをいろいろ手伝っているうちに、いつの間にか記念館の館長もやることになりました。
(※『明日の神話』の再生:岡本太郎作の『明日の神話』は5.5m×30mという巨大壁画。1968年頃にメキシコで制作され、太郎の最高傑作とも言われました。長く行方不明になっていましたが、2003年にメキシコの資材置き場で発見され、再生プロジェクトにより修復。現在はJR渋谷駅と京王線渋谷駅の連絡通路に展示されています。関連リンク

平野
記念館の母体は公益財団法人で、理事職も館長職も無報酬のボランティアです。でも、こうして太郎のことをやっていて、本当に良かったと心から思います。

それはいろいろな世界のクリエイティブな人たちとたくさんご縁ができたから。太郎・敏子と縁のある人たちが、僕のことを昔からの知り合いだったかのようにあたたかく受け入れてくれる。それは僕にとってこの上なくエキサイティングなことであり、かけがえのない財産です。太郎・敏子からのご褒美だと思ってます。

残間
ファンみたいにガーっとのめり込まないで、ずっと普通のおじさんと甥みたいな関係だったのが、返って良かったみたいですね。

平野
そうかもしれません。太郎のことをやる時も、ぼくのスタンスは「ファン」ではなく、あくまで「プロデューサー」です。あえてのめり込まず、たえず俯瞰する視座をキープすることを意識しています。


(Part5に続く)








Part1 突如よみがえった小六の感動

Part2 大阪万博が生み出した新しい職業

Part3 岐路に立つ博覧会

Part4 岡本太郎をプロデュースする

Part5 還暦から新しいことを始める


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