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今が一番楽しいんです。 2/5

(聞き手/残間里江子 撮影/岡戸雅樹 構成/髙橋和昭)


Part2 大阪万博が生み出した新しい職業


クリエーターをマネジメントする人間が必要だった。

残間
お父さまの会社で万博づくりの修行が始まったということですが、そもそもお父さんはどうして万博のお仕事をするようになったのですか? 
平野
大阪万博テーマ館のプロデューサーは、岡本太郎でした(※テーマは『人類の進歩と調和』)。今も万博記念公園には、当時建てられた『太陽の塔』が残っていますね。ただしテーマ館は、当時で何十億円というビッグプロジェクトであり、個人の作家が作品として作れるスケールではありません。多くのスタッフと、それを束ねる組織が必要です。

実際、スタッフはいろんなところから集められました。映画の美術をやっている人とか、録音スタジオで働いていた人とか、いろんな職能の人が集まった。たぶん最盛期で100人近いスタッフがいたと思います。ただ、当時は終身雇用の時代で、流動性はほとんどありませんでしたから、人を集めるのはいまほど簡単ではなかった。

残間
フリーランスなんて、ほとんどいなかったですからね。

平野
実際、スタッフたちはそれまで勤めていた会社を辞めて集まったんです。みんな万博が終わったら失業することを覚悟していました。それでもいいからやりたい、と思ったわけですね。生涯に二度とないチャンスだったから。日本で初めての万博には、それほどの魅力と熱量があったということです。

残間
そんな彼らを、太郎さんは組織化しなければいけなかったわけですね?

平野
そうなんです。組織のマネジメントが必要だったし、プロジェクトのマネジメントも必要だった。しかし、組織やプロジェクトの管理=マネジメントなんて、岡本太郎にできるわけがない。公私のパートナーだった岡本敏子も同じです。それはふたりにもわかっていました。そこでふたりが目をつけたのが、敏子の弟である僕の父・平野繁臣だったんです。
父は芸術的な知識も素養もまったくない、保険会社のサラリーマンでした。業務課長として社員研修のプログラムを作ったりしてたらしいです。ただ、思考がロジカルで、数字にすごく強かった。マネジメントの際たる部分ですよね。

テーマ館のプロジェクトに参画した父は、小松左京(作家)、川添登(建築評論家)、千葉一彦(映画美術監督)とともに、テーマ館のサブプロデューサーになります。父以外の3人はクリエイティブの人間で、それぞれ地下展示、空中展示、塔内&地上展示を担当したんですが、父の担当は“運営管理”。いわばテーマ館のプロジェクト・マネージャーです。万博は父にはまったく知らない世界でしたが、たぶん面白そうだと思ったんでしょうね。血が騒いだのかな。

残間
あの万博では面白そうだと思った人が集まって、それが後に職業になっていきましたからね。いろんな分野でそれが起こりました。ファッションショーの運営とかもそう。

平野
そうそう。それでとにかく父は大阪万博をやり遂げたんですが、当時は万博の専門家なんて日本に一人もいなかったんです。なにしろ日本初だったので。ところが、大阪万博があれほどの成功を収めたために、今度は失業覚悟で万博に飛び込んだ人たちが権威になっていくんです。これには良い面も悪い面もありました。

残間
そういう経緯だったんですね。お父さんは保険会社を辞めて。

平野
僕はそれとは全く関係なく、さっき言ったようにモテそうだから建築学科に入って、ゼネコンに行って楽しく仕事をしてたわけですが、どこかで万博への思いが引っかかっていたんでしょうね。ある時、ふと思い出した。
残間
ゼネコンで世のため人のために建築を作るのも感動があったでしょうけど、小学校六年生の時に見た万博に、その比ではないものが刻まれていたと。

平野
なにしろ、それまで「ブラウン管の向こう側」にあったものが、いきなり目の前に現れたわけですからね。とにかく「初めての体験」がいっぱいだった。僕、動いている外国人を初めて見たのだって、万博ですからね。

残間
みんな会場で外国人に会うと、サインをもらったんですよね? 特にアフリカ系の方が人気だったみたいです。誰も見たことがなかったから。

平野
当時会場を持ち歩いていたガイドブックをまだ持ってますけど、外国人のサインがいっぱい残っています。なにしろ必死に集めたので。

外国人って「ブラウン管の向こう側」だったんですよね。アメリカ人といえば、プールサイドでホームパーティをやっているイメージ。でも実際にそれを見た奴なんていない。バーチャルだったんですよ。この意味では宇宙人と一緒だった(笑)。ところが万博に行ったら、宇宙船はあるわ、金髪は歩いているわ……。大げさに言えば、宇宙人が目の前にいるのと同じ状況だったわけですね。

残間
今のITが出てきた時の比じゃなかったですよね。

平野
僕にとって「人生最大の事件」です。あれを超える衝撃はいまだにないですから。たぶん死ぬまでそうなんじゃないかな。








システム化されていった万博づくり

残間
平野さんは国際博の日本館のプロデューサーを何度もやっていますが、最初にやったのは?

平野
ブリスベン(1988年/オーストラリア)です。その時は父がプロデューサーで、僕はまだ見習いでしたけど。

残間
私も万博の仕事に関わったことがあるので、平野さんのお父さんには何度かお目にかかったことがあります。こういう言い方も変ですが、イベントというと少々浮わついた方もいらっしゃる中、非常に堅実な方とお見受けしました。最初は役所の方と思ったくらい(笑)。

平野
親父は堅い人間でした。なにしろ保険会社ですから。

残間
でも博覧会の仕事にはああいう方が必要ですよね。

平野
それはそう。博覧会って構成要素がとても多くて複雑です。不確定要素ばかりで、何が起こるかわからない。しかも“興行”でしょう? 一般社会から見たら、どうやって作ったらいいのかわからないわけです。だから昔は“覧会屋(ランカイヤ)”と呼ばれる得体の知れない人たちが牛耳っていました。

父に功績があるとすれば、それを目に見えるシステムにしたこと。構成要素を整理したうえで、どういう風に組織を作り、どのように予算を編成し、どうやって準備を進めていくか、みたいなことを網羅したシステマティックな雛形を作ったんですね。これが完成したのが1984年に宇都宮でやった「'84とちぎ博」あたり。そのシステムを活用することで、リスクを嫌う行政も、安心して博覧会をやれるようになったわけです。

もちろんこれにはマイナスもあります。一つのシステムに乗って執行するわけですから、なかなかその型から出られない。面白いアクシデントは起きにくいし、マンネリにも陥りやすい。功罪両面あったと思いますが、父はああいう性格もあって、“得体の知れないもの”“一般人には手の出せないもの”と思われていた博覧会を、ある種の透明なシステムとして社会に送り出したわけです。

残間
でも、そういう部分がないと社会に広まってはいきませんからね、覧会屋さんだけでは。夢だけ追っていてもプロジェクトとして成立しませんし。
平野さんもそういう位置にいたのは良かったですね。アーティスト側だけにいると、そこのスキルは身につかなかったと思います。

平野
そうですね。僕は最近まで役所の仕事がほとんどでしたから、役所のロジックとか役人のメンタリティとか、どういう風にやることでみんなを安心させられるかを、父と働くことで肌で感じることができました。
「どうだ、俺の考えるてることって面白いだろ、ついてこいや!」では、税金を使う仕事はできません。

残間
その後、ご自身がプロデューサーとして、セビリア、テジョンやリスボンなど、ずいぶん日本館を手掛けましたね。

平野
全部で5回やりました。でも、博覧会のプロデュースはもういいかな。

残間
もうやり尽くしたと………

平野
というより、博覧会って、若い世代が活躍すべき場なんです。僕だって若い頃にたくさんチャンスをもらいましたから。それに、あとで話に出るかもしれませんが、最近、新しいことを始めて、それが面白くて面白くて。


(Part3に続く)








Part1 突如よみがえった小六の感動

Part2 大阪万博が生み出した新しい職業

Part3 岐路に立つ博覧会

Part4 岡本太郎をプロデュースする

Part5 還暦から新しいことを始める


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