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今が一番楽しいんです。 1/5

海外の万博で何度も日本館を手がけ、空間メディアプロデューサーとして活躍してきた平野暁臣(あきおみ)さん。芸術家の故・岡本太郎の縁者であり、岡本太郎記念館の館長でもあります。さらに最近では音楽の世界に進出。ジャズレーベルを立ち上げるなど、多彩な活躍を見せています。還暦を過ぎた今、平野さんは人生で今が一番楽しいとのこと。その楽しさの秘密とは?(残間)
(聞き手/残間里江子 撮影/岡戸雅樹 構成/髙橋和昭)


Part1 突如よみがえった小六の感動


ヴァーチャルだったSFの世界がリアルに現れた



※今回の取材は、平野さんが館長を務めている東京・青山の
『岡本太郎記念館』で行われました。




残間
ここは何度か訪れていますが、いつも急いで拝見していたので、今日は後でゆっくり見させてください。では、よろしくお願いします。

平野
こちらこそ。

残間
平野さんは空間メディアプロデューサーとして、数々の国際博の日本館を手がけてきました。万博のプロフェッショナルというか、この世界では第一人者だと思います。他にもダボス会議やたくさん国際イベントに関わっていますね。
大学は横浜国大の建築学科を卒業したそうですが、どういう経緯で空間プロデュースの世界に入ったんでしょう。まず、そこから聞かせてください。やっぱり最初は建築家を目指していたんですか?

平野
そうです、って言いたいところだけど、そうじゃないんです。建築学科を選んだのは、一番女の子にモテそうな気がしたから。何か、建築家って、カッコいいじゃないですか(笑)。そんな程度のモチベーションだったから、いざ大学に入っても、クルマや女の子のことで頭がいっぱいで。大学院に進んだのも、まだ就職したくなかっただけ。いや、もうお恥ずかしい限りです(笑)。でも、さすがに大学院の後はそうはいかなくて、何かで飯を食わないといけない。

今はいろいろ選択肢があるんだろうけど、当時は、建築学科を出た学生の就職先は、大きく3つしかなかった。ゼネコンに入る。役所に入る。設計事務所に入って建築家を目指す。この3つです。
そんな時に友だちの下宿の白黒テレビで、偶然『海峡』という高倉健の映画を見たんです。青函トンネルの工事に執念を燃やす、国鉄技師たちの物語。本州側と北海道側から掘削してきて、ついに真ん中で両者が出会った瞬間、みんなが歓喜に沸くわけです。でも健さんだけはそこから離れ、ひとり万感の思いで拳を握りしめている………………「おー、カッコいい!」「これだ! これが男の仕事だ!」と。

残間
(笑)

平野
それでゼネコンに入り、現場を希望しました。現場の仕事はものすごく楽しかったし、面白かった。なにしろ自分が描いた施工図通りに、目の前で建物が出来上がっていくわけですからね。充実した日々でした。

小学校の卒業文集に「万博をやる」って書いてた
平野
ところが2年ぐらい経った時に、ふと「あれ? 俺が作りたかったのはこういうものだっけ?」と思ったんです。そして「あっ!」と思い出した。「そうだ! 俺は万博を作るはずだったじゃないか!」と。
1970年、僕が小学校6年生の時に開催された大阪万博。もう超絶感激しました。

残間
来場者数6400万人の一人だったんですね。

平野
はい。父がテーマ館に関わっていたこともあって、泊まりがけで一週間通いました。だから僕一人で7人分カウントされてるはずです。とにかく、これがもう凄かったんですよ。
当時、日本はまだ貧しかった。僕だって、つぎ当てのある半ズボンをはいて、メンコやベーゴマや缶蹴りで遊んでいました。そういう貧しい小僧の目の前に、ドーンと未来が舞い降りたわけです。宇宙船、月の石、レーザー光線、動く歩道、コンピューター………

残間
パビリオンも独創的で凄かったですね。

平野
非日常のSF世界を空間体験として見せてくれた。今風の言い方で言えば、庶民にとってバーチャルの領域にあったものが、とつぜんリアルなものとして目の前に立ち現れたわけです。このときに受けた衝撃はうまく言葉で説明できません。

僕が子供だったということもあるでしょう。小学校6年生だったから、無邪気に、何の疑いもなく「万博スゲー!」と感動した。
これが大学生になるとヒネてくるから、万博なんて70年安保から目をそらせるための政府の陰謀だ、「万博反対!」みたいになるし、数年下の幼稚園くらいだと、「行ったけど覚えてません」という話になる。だから、僕を挟んで前後数年くらいに生まれた世代が、もっとも純粋な「万博少年」なんです。万博オタクとか万博マニアと言われる人たちは、だいたいこの中に入っていますよ。『20世紀少年』の浦沢(直樹)さんも僕の一つ下だし。

忘れてならないのは、万博関連の意思決定をしている人たちも、多くはこの世代だということです。50代半ばから60代半ば。この世代は僕も含めてあまりに大阪万博の体験が強烈だったから、身体にいわば“トラウマの真逆”みたいなものが刻まれているんです。万博と聞いただけで脳内に快楽物質が出ちゃうわけ。

万博は「良きもの」、70年万博みたいなことができたら、社会に大きな貢献ができる、「あの万博をもう一度!」という思考回路になっちゃうんですよね。無意識のうちに。
大阪万博を体験した世代と知らない世代では、「万博」というワードを聞いたときの心象風景がぜんぜん違うんですよ。もちろん日本語だから、一応、会話は成り立つんだけど、頭に浮かんでいるイメージはまるで別物。だから議論が噛み合わないんです。

まあとにかく、あまりに感動した僕は、小学校の卒業文集に書いたわけです。テーマは「将来何になりたいか」だったかな。大阪万博は凄かった。今度は僕が子供たちに万博を作ってあげる番になるんだと。

残間
へえー。

平野
その文集は今でも残っています。もちろん当時はプロデューサーなんて言葉は知らないから、「デザイナー」になりたいと書いてあるけど。

というのをゼネコンの現場で思い出したんです。ゼネコンの仕事はすごく楽しいけど、そうだ、俺は博覧会を作るはずだったじゃないかと。
運のいいことに、自分の父親がたまたまそういう仕事をしてるし、身近に(岡本)太郎もいる。それでゼネコンを辞め、父の事務所で丁稚奉公から始めたわけです。


(Part 2に続く)








Part1 突如よみがえった小六の感動

Part2 大阪万博が生み出した新しい職業

Part3 岐路に立つ博覧会

Part4 岡本太郎をプロデュースする

Part5 還暦から新しいことを始める


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