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今こそ、「日本」を発信する時。3/3



vol.3 小学校三年生以来のシンフォニー好き


残間
ところで指揮者って、どんな仕事なんでしょう。わかっているようで、よくわからないところもありまして(笑)。


大友
さっきも言ったように指揮者もまたエンターテイナーです。楽団の看板にもなれなければいけません。選曲もしますし、音楽監督として楽団のすべての活動をプロデュースする立場ですね。興行主的な意味合いもあると思います。

それから100人からいる一流プレーヤーたちに、信用されないとできない仕事です。当然、信用される裏付けが必要になります。楽器演奏の下地も必要です。私もピアノやコントラバスをやりました。

そもそも指揮者がいないとリハーサルができないですよね。仕切る人間がいないと、曲が仕上がりません。指揮者がいないとコンサートが成り立たないんです。
ではどういう人が仕切るかといえば、やはりおおよそのプレーヤーがその人を信頼して、いろんなことを委ねられる人間ということになります。

残間
それは人柄も含めて、総合的な能力が必要とされる仕事ですね。

大友
勉強したから指揮者になれる、というわけではないところが難しい。

残間
時には楽団員と険悪というか、スリリングな状況にもなるのでしょうね。大友さんの場合は穏やかにまとめ上げるのかしら。

大友
いや、そんなこともないですよ。ブチ切れたこともあります。3回ぐらいかな。

残間
どういった時に切れる、わけですか。ちゃんと演奏しないから?
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大友
うーん‥‥態度が悪いとか‥‥簡単なことでもないんですけどね。まあ、言ってることが見当違いとか。

結局、オーケストラも世の中と同じで、いろんな人がいるんですよ。で、こいつの言動や演奏はちょっと変だなと思いつつも、軋轢を起こしたくないから、周りは我慢して黙ってやってる。
それを私がある時、我慢が限界に来て、厳しく問い詰めたわけです。すると何が起こったかというと、他の団員から拍手が起こりました。よくぞ言ってくれたと。
その変な人の味方も何人かいたかもしれませんが、ほとんどの人にはストレスになってたんですね。これはどんな世界にもあることでしょう。

残間
忘れられない演奏とか、あれが最高の演奏だった、というものはありますか?

大友
そんな大げさなものは私にはありませんが、三枝さんのオペラ『忠臣蔵』の初演。あれは本当にプロダクションに関われて良かったと思います。今、録音を聴き返しても、どこに出しても恥ずかしくないものです。
それから千住明さんとやっている幾つかの新作も素晴らしいし、先日亡くなられた冨田勲さんの遺作になった『イーハトーブ交響曲』とかね。

私としてはクラシックのベーシックな作品を押さえつつも、やはり我々でないとできない創作活動というのに、やりがいを感じますね。

残間
そもそも大友さんって、いつ頃から音楽の道を志したんですか?

大友
小さい頃からピアノをやっていたんですが、クラシックのシンフォニーに目覚めたのは小学校三年のときですね。実はその頃から作曲とか始めてたんですよ。まねごとみたいに。すでにかなり好きでした。

残間
そんなに早くからだったんですか。特に音楽一家というわけではなかったんですよね。

大友
父は普通のビジネスマンです。よくクラシックのレコードを買って来たんですが、並べておくだけでろくに聴きもしない。それを私がもったいないと思って、聴き始めたのがきっかけです。
でも、両親はコンサートにはよく連れて行ってくれましたね。それで私は小学校の時に、すでにN響の定期会員でした。

残間
へえ。学芸大附属中学から桐朋学園の音楽科に進まれるわけですが、その頃には音楽の世界でやっていこうと。どんな心境でした。

大友
成功した音楽家、作曲家の伝記を読むと、モーツアルトとかメンデルスゾーンがそうですが、10代で結構な作品を残しているんです。二十歳過ぎたら、みんないっぱしの大作曲家ですよ。それでとても焦っていました。
中学はいわゆる受験校だったわけですが、高校の受験勉強なんてやっている場合じゃないと。大学から音楽の勉強始めてもすぐ二十歳になってしまう。これでは遅いのではと、中学一、二年の頃は危機感を持ってましたね。同世代の中には早期教育を受けている人もいましたから。

残間
ご家族は反対しませんでしたか。

大友
父は反対しませんでしたね。無責任なだけだったかもしれませんけど。母親には大反対されました。

残間
ピアノを習っていたとはいえ、職業にするとなるとね。

大友
それでも最後には賛成してくれて、実は音楽の道に進むにあたって、母子で齋藤秀雄先生に会いに行ったんです。(※齋藤秀雄:1902-1974/音楽教育者として活躍。没後弟子たちが主体となってサイトウ・キネン・オーケストラが創設されている)
そこが本格的なスタートでした。
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残間
いきなり齋藤秀雄ですか。

大友
齋藤先生は私が高校に上がった年に亡くなられたので、3回くらいしかお会いしていないんですが、私の今の価値観や音楽への取り組み方に、大きく影響していますね。
齋藤先生は最初に母に会った時、こう言ったんです。
「お母さんね、息子さんを音楽家にするということは、河原乞食にすることなんですよ」

「河原乞食」という言葉はその時に初めて聞きましたが、実はこれは核心を突いた言葉です。つまり音楽には芸術や高尚な文化という側面もありますが、現代におけるポジションは、あくまでもエンターテイメントということ。今の日本のクラシック音楽界が忘れているものです。
「音楽家というのは河原乞食、芸人ですよ。そこをわかってますか?」と言いたかったんですね。齋藤先生は音楽の根本を的確に捉えていた方ですよ。

残間
なるほど。先ほどの話とつながりました。演劇やっている人もそう言いますね。

大友
いや、本当にその通りですよ。その根本に立ち返って、日本の音楽シーンというのをもう一回作っていくのが、将来の発展につながると思います。

残間
大友さんの最近の活動で面白いと思ったのが、加山雄三さんとのオーケストラでの共演です。世間的にはというか、西洋至上主義から言えばキワモノに映るのかもしれませんが、加山さんが違う輝きを放っているし、オーケストラも別の存在感があって。

大友
あれは難しいところがありまして、両方のファンが引くところがあるんです。加山さんのファンは、いつもの加山さんを聞きたがるし、オーケストラのファンもそう。「えー大友直人、加山雄三とやるの?」となってしまう。固定観念があるせいでチケットを売りづらかったですね。
でも、それが現実なんですよ。だけど音楽的には素晴らしかったですよ。もう一回やりたいんですが、加山さんも80歳ですからね‥‥

その流れで言うと、去年からの大ヒットは玉置浩二です。私が音楽監修をして、オケで共演しています。スケジュールの関係で全てのコンサートは指揮できないんですが、これは素晴らしいです。アレンジも徹底的にこだわっています。
去年から始めて、評判を呼んで追加公演につぐ追加公演。玉置さんには2年ほど前に初めて会いましたけれど、日本の歌手としてもエンターテイナーとしても、トップの一人ですね。残間さんも一度観に来てください。

残間
お誘いありがとうございます。是非とも。
今日はありがとうございました。

大友
こちらこそありがとうございました。

(終わり/2016年7月取材)

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