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歩き続ける。歌とともに、縁とともに。 3/3

山崎ハコさん(シンガー・ソングライター)

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vol.3 多くの人に支えられて今がある



残間
ハコさんって、逆境から見事に何かを得ているんですね。

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山崎
そうかもしれません。
ただそれも、本当にたくさんの方に支えていただいたからこそですね。

安田さん(ハコさんのご主人の安田裕美氏)と結婚したのも、事務所が倒産して家すらなくなってしまった、ちょうどその頃でした。

※安田裕美……日本の作曲家・編曲家・ギタリスト。
六文銭、フライング・キティ・バンドのメンバーとして活動。井上陽水のデビュー当時を支えたバックギタリストとして有名。


彼にはデビュー当時からギターを弾いてもらっていたんですが、事務所が倒産してから調べてみると、なんと事務所は安田さんに何百万という単位でギャラを払っていなかったんです。
しかもその理由が、安田さんが「ハコちゃんならタダで弾いてもいい」と言ったから。
ありえませんよね。

未払いになっていた人は安田さんだけではなくて、他にも何人もいらっしゃって……これは私がお金を稼いでお返ししなければと思って、必死にライブを重ねていました。

そんな時、安田さんから「どうしてこんな回数、ライブを1人でやるんですか」と訊かれたんです。それで、初めて「実は事務所が倒産しているんです」とお話することになりました。
それを聞いた安田さんは、「じゃあ今度からは、待ち合わせして、僕が車でライブハウスまで送っていくよ」と言ってくれたんです。嬉しかったですね。

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残間
安田さんと山崎さんって、夫婦というよりも同胞というか……いい関係だな、と見ていて思っていたのですが……そんな経緯があったんですね。

山崎
そうなんです。
それから、俳優の原田芳雄さんにも、大変お世話になりました。
……実は芳雄さんって、私がデビューして初めてお会いした芸能人の方だったんです。私の歌が好きだとずっと公言してくださっていたんですよね。

安田さんとのことでも、結婚式をする予定はなかったんですが、芳雄さんが、「あとで後悔するからパーティだけでもやれ」と言って下さって。「大安の日がいいぞ」なんて、日取りまで考えてくださいました(笑)。
照明や音響は渡辺えりさんの劇団『3○○(さんじゅうまる)』の人がやってくれて、芳雄さんが乾杯の挨拶、そしてゲストに島倉千代子さんが来てくださって『人生いろいろ』を歌ってくれるという……

残間
豪華な結婚式ですねえ。

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山崎
それから感慨深かったのは、父親役も芳雄さんにやってもらったことです。
その時芳雄さんが、「これからは俺を親だと思え。この世に自分はたった一人だと思うなよ、ここに怖いのがいるだろうが、わかったか」と。
年賀状にも「喧太、麻由、ハコ」なんて、芳雄さんのお子さんの名前と並べて書いてくださったりするんですよ。
「俺がハコの歌を聴きたいし、そういうやつはいっぱいいるんだ。辞められると寂しいだろう、歌う場所は作ってやるから歌い続けろ」って。

私がライブハウスまで電車で通っているなんて言うと、「山崎ハコは俺がファンなんだから、電車なんかで行っていいわけがない」と言って、次のライブからは、芳雄さんの事務所の方が車で送迎してくださるように手配していただいたり。
「格を上げろ」、「どんな小さいライブハウスでもちゃんと歌え」と言うんです。
本当にありがたかった。

それから同時に、これだけのことをしてもらえるのは、私自身というより、私の歌に人を動かす力があるからだ、とも思いました。逆にいえば、歌が駄目になったと思われたら一巻の終わりというか、自分で自分に見切りをつけようと。
何十年経っても、私を支えてくださった方には「ハコの歌は良いね」と言っていただきたいですから。

……だけど実は私、歌を歌えなくなったことがあったんです。

2011年の5月に、東日本大震災の被災地を渡辺えりさんと一緒に訪れていたんです。
被災地を見て、どんなに暗い曲でもあの状況を歌うことや表すことはできない、と思いました。この世のどんな悲しさでも歌おう、くらいの気持ちでいたのに。

その上というか、その2か月後に芳雄さんが亡くなったんです。
本当にショックで、辛かったですね。半年以上、歌を歌えなくなりました。

こういう状況を変えるためにはどうすればいいんだろうと思って、「起きた瞬間から見える景色が180度違う場所にしばらく行ってみてはどうか」と思ったんです。
渡辺えりさんにそういうことを話すと、えりさんの故郷である山形の別宅を快く貸してくださいました。

冬の寒い時期に行きましたが、素晴らしい土地でした。家の近くに大きな一本道があって。
10日間そこにこもって、気付いたら1日1曲のペースで曲が出来ていました。

このとき作った歌を収録したのが『縁』(えにし)というアルバムです。
タイトル曲の『縁』は、

「遠いところに行くあなたが 昔つぶやいたこと
出逢いも別れも再び会うのも 縁なんだよと」

という歌詞から始まるんですね。

この曲を作って、何か一つ“越えた”感じがしました。
喧嘩別れにしても死別にしても、いつか会えるだろう、と思えたんです。

今は、いつかは芳雄さんに会えるのなら、まだ生き急ぎたくないなあ、と思います。
もし芳雄さんと今再会したら、「もう来たのかよ」って怒られちゃいます。「まだ歌えただろうが、俺なんかあんなにギリギリまでやってたぞ」と言われたら、何も言えません。

……その2年後、渡辺さんに再び別宅をお借りしてアルバムを作ったんです。
『歌っ子』というタイトル。「歌を歌いながら歩いてきたね」「いつも歌ってる子だった」という詞を書きました。

私はずっと歌を歌ってきました。
これからも、たとえ地団太を踏んででも、歌を歌っていたいな、と思っています。

残間
お話を伺っていて、ハコさんの曲の“強さ”の理由を垣間見たような気がします。
今日はありがとうございました。

山崎
ありがとうございました。
(終り/2015年8月取材)

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vol.1 祖母の言葉を胸に生きてきた

vol.2 歌っているときだけが、自由だった

vol.3 多くの人に支えられて今がある