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歩き続ける。歌とともに、縁とともに。 2/3
山崎ハコさん(シンガー・ソングライター)

vol.2 歌っているときだけが、自由だった
その後ハコさんは、家の事情もあり高校1年生で横浜に転居。
クラスメイトから誘われたフォークソング・コンテストに出場し、それがきっかけになり、1975年に歌手デビューをしました。シングル18枚、アルバム24枚を発表し、いくつかの芝居にも役者として出演。 しかし、1998年、41歳の時に所属していた事務所が倒産する憂き目に遭ってしまいます。
クラスメイトから誘われたフォークソング・コンテストに出場し、それがきっかけになり、1975年に歌手デビューをしました。シングル18枚、アルバム24枚を発表し、いくつかの芝居にも役者として出演。 しかし、1998年、41歳の時に所属していた事務所が倒産する憂き目に遭ってしまいます。
残間
『飛びます』(1975年)、『ヨコハマ』(1978年)『織江の唄』(1981年)など名曲の数々で、音楽界や演劇界から絶賛を浴びるハコさんですが……事務所が倒産したあとは大変だったようですね。

山崎
18歳でデビューしたこともあって、私は本当に世間知らずでしたね。事務所が倒産してから非常識さに気づいたんです。
お給料なんかはその最たるもので……実は私、22年間、少ない給料だけしか貰ったことがなかったんです。
お給料なんかはその最たるもので……実は私、22年間、少ない給料だけしか貰ったことがなかったんです。
残間
えっ。印税とかもなく、ですか?
山崎
そうなんです。
私はお芝居に出演したことがあるんですが、当時の事務所からは「ノーギャラなのにやらせてあげている」と言われていました。
それが蓋をあけてみたらどの出演者よりも高いギャラが事務所に払われていたんです。当然、私には一銭も支払われていない。
印税というものの存在に気づいたのですら、事務所がなくなって、人に指摘されてからでした。結局支払いも権利もうやむやになりましたね。裁判も起こせると言われましたが、当時は時間もお金も体力も余裕がなくて……。
私が作った曲の権利をどこが持っているかだけは調べよう、と思って弁護士事務所に通っていたんですが、そのための交通費を捻出するのすら難しいんです。仕事どころか住む家までなくなったりしましたから。
仕方がないので、中華屋さんで食器洗いのアルバイトをしていたり……。
それから、当時は「事務所の許可なく外に出てはいけない」とも言われていましたね。意図的に外界から遮断されていたんです。
あの頃の興味はもっぱら「部屋で育てているトマトの花が咲いた」とか「トマトの花が枯れた」とか、そんなことだけ。枯れたときには泣いて恨んでいましたよ。
初めに「この事務所に骨をうずめる」という覚悟で事務所に入ったので、何も疑おうとしませんでした。ある意味、私と事務所の関係は、カルト宗教とその信者に近いようなものがあったと思います。
おそらく裁判になっていたとしても、証言できなかったでしょうね。「あんなにいい人たちだったのに。私が勘違いしているのではないか」と。
……そういう生活がデビューして15年ほど続いていたのですが、30代前半のころ、女優の渡辺えりさんと出会ったんです。
ここから私の歌手人生は大きく変わりました。
知り合ったきっかけは、民謡歌手の伊藤多喜雄さんに歌を作るという仕事が入ってきたことからでした。作るにあたって、一度彼の歌を聴いてみようということで、伊藤さんのコンサートに行ったんです。
その時の打ち上げでえりさんと同じテーブルになりました。もともとファンだったので、あのときは嬉しかったですね。
私はお芝居に出演したことがあるんですが、当時の事務所からは「ノーギャラなのにやらせてあげている」と言われていました。
それが蓋をあけてみたらどの出演者よりも高いギャラが事務所に払われていたんです。当然、私には一銭も支払われていない。
印税というものの存在に気づいたのですら、事務所がなくなって、人に指摘されてからでした。結局支払いも権利もうやむやになりましたね。裁判も起こせると言われましたが、当時は時間もお金も体力も余裕がなくて……。
私が作った曲の権利をどこが持っているかだけは調べよう、と思って弁護士事務所に通っていたんですが、そのための交通費を捻出するのすら難しいんです。仕事どころか住む家までなくなったりしましたから。
仕方がないので、中華屋さんで食器洗いのアルバイトをしていたり……。
それから、当時は「事務所の許可なく外に出てはいけない」とも言われていましたね。意図的に外界から遮断されていたんです。
あの頃の興味はもっぱら「部屋で育てているトマトの花が咲いた」とか「トマトの花が枯れた」とか、そんなことだけ。枯れたときには泣いて恨んでいましたよ。
初めに「この事務所に骨をうずめる」という覚悟で事務所に入ったので、何も疑おうとしませんでした。ある意味、私と事務所の関係は、カルト宗教とその信者に近いようなものがあったと思います。
おそらく裁判になっていたとしても、証言できなかったでしょうね。「あんなにいい人たちだったのに。私が勘違いしているのではないか」と。
……そういう生活がデビューして15年ほど続いていたのですが、30代前半のころ、女優の渡辺えりさんと出会ったんです。
ここから私の歌手人生は大きく変わりました。
知り合ったきっかけは、民謡歌手の伊藤多喜雄さんに歌を作るという仕事が入ってきたことからでした。作るにあたって、一度彼の歌を聴いてみようということで、伊藤さんのコンサートに行ったんです。
その時の打ち上げでえりさんと同じテーブルになりました。もともとファンだったので、あのときは嬉しかったですね。

残間
じゃあ、知り合ったのはまったく偶然だったんですか。
その時は、事務所の許可が出たんですね。
山崎
そうですね。
ただ、思えばあのタイミングだったからこそ、えりさんと交流を始められたんです。というのも、その頃から事務所の経営が傾き出していたんですね。
1986年、私が29歳の頃に『なわとび』というシングルを出したんですが、その次に作品を発表できたのは1990年。4年後なんです。CDを出せなくなってきていたんですよね。
そのおかげで、マネージャーも私につきっきりというわけではなくなって、少し自由になったんです。
そういう事情もあって、打ち上げの時はえりさんに積極的に話しかけました。マネージャーが付いてきていたら、あんなには話せなかったと思います。
えりさんはすごく優しかったです。「今、私が制作した演劇でハコさんの曲を使っているんです。下北沢にある『ザ・スズナリ』という劇場ですよ」と教えてくださって。
それを聞いて、生まれて初めて芝居というものを観に行ったんです。
そこで私の『望郷』という曲が流れていました。
「青い空 白い雲の田舎へ帰ろうか あの家へ帰ろうか あの家はもうないのに」という歌詞の曲なんですね。それが芝居で流れると、自分の歌なのに涙が出てきたんですよね。
ただ、思えばあのタイミングだったからこそ、えりさんと交流を始められたんです。というのも、その頃から事務所の経営が傾き出していたんですね。
1986年、私が29歳の頃に『なわとび』というシングルを出したんですが、その次に作品を発表できたのは1990年。4年後なんです。CDを出せなくなってきていたんですよね。
そのおかげで、マネージャーも私につきっきりというわけではなくなって、少し自由になったんです。
そういう事情もあって、打ち上げの時はえりさんに積極的に話しかけました。マネージャーが付いてきていたら、あんなには話せなかったと思います。
えりさんはすごく優しかったです。「今、私が制作した演劇でハコさんの曲を使っているんです。下北沢にある『ザ・スズナリ』という劇場ですよ」と教えてくださって。
それを聞いて、生まれて初めて芝居というものを観に行ったんです。
そこで私の『望郷』という曲が流れていました。
「青い空 白い雲の田舎へ帰ろうか あの家へ帰ろうか あの家はもうないのに」という歌詞の曲なんですね。それが芝居で流れると、自分の歌なのに涙が出てきたんですよね。
残間
渡辺えりさんはクラブ・ウィルビーのサポーティングメンバーでもあり、私も長く友人として付き合ってきていますが……本当に真っ直ぐというか、独自の感性を持っている方ですよね。
だからこそ、ハコさんの曲が琴線に触れるのかもしれません。
だからこそ、ハコさんの曲が琴線に触れるのかもしれません。
山崎
私はそれまで、自分の歌にコンプレックスというか、恥ずかしさがあったんです。なにしろ暗いでしょう。人にウケないと思っていました。それがえりさんに曲を使っていただいて、マスコミにも「暗いところが良い」と宣伝してもらって。
初めは「どうしてそんなことを言うんだろう」と思っていたんです。
だけどふと、自分はどうして自分の曲を好きだと思えないんだろう、と思ったんです。自分の好きな世界を歌っているはずなのに。
「自分が自分の曲に自信を持たないと駄目だ」「えりさんが一番私の曲を好きでいてくれているようでは駄目だ」と。自分が自分の応援団長になろうと決めたんです。
このことに気づかせていただいたのは、本当にありがたいことでしたね。
今は、歌っているとき以外の私は「山崎ハコの双子の妹、兼マネージャー」とか、とても近い応援者、という感覚です。
初めは「どうしてそんなことを言うんだろう」と思っていたんです。
だけどふと、自分はどうして自分の曲を好きだと思えないんだろう、と思ったんです。自分の好きな世界を歌っているはずなのに。
「自分が自分の曲に自信を持たないと駄目だ」「えりさんが一番私の曲を好きでいてくれているようでは駄目だ」と。自分が自分の応援団長になろうと決めたんです。
このことに気づかせていただいたのは、本当にありがたいことでしたね。
今は、歌っているとき以外の私は「山崎ハコの双子の妹、兼マネージャー」とか、とても近い応援者、という感覚です。
残間
へえー。客観的というか、一歩引いた目線からご自分を見ていらっしゃるんですね。

山崎
思えば事務所とのことも、“歌手・山崎ハコ”という、歌のこと以外は考えられない人間しかいなかったからなんじゃないか、と思っていて。
あの頃は体重が30キロを切ってもまだ歌おうとしたりしていました。
あの頃は体重が30キロを切ってもまだ歌おうとしたりしていました。
残間
うーむ、なるほど……。
ただ、語弊があるかもしれませんが、人生のある期間、損得勘定抜きにひたすら純粋に音楽に打ち込めたからこそ、今のハコさんがあるのかもしれませんね。もちろん、大変な経験だったんですが……。
ただ、語弊があるかもしれませんが、人生のある期間、損得勘定抜きにひたすら純粋に音楽に打ち込めたからこそ、今のハコさんがあるのかもしれませんね。もちろん、大変な経験だったんですが……。
山崎
いや、それは本当にそうなんです。
事務所に対しては災いも多かったけれど、とはいえ、悪いことばかりだったというわけでもないなと。
結果はどうあれ、歌の楽しさや面白味に気づかせてくれた場所ではありました。
事務所の人たちは興行師というか、音楽のことは分からないので、歌に注文をつけてこなかったんです。だから、歌っている時だけが自由でした。
昔から、祖母に「思っていること全てを言ってはいけない」と言われて育ったこともあり、「歌ならどんなことでも言っていい」というのは新鮮な驚きでした。
それから、事務所が倒産してからはマネージャーがいなくなったので、ライブチケットの値段やギャラ、つまり「自分の歌の値段」を自分でつけることになったんです。
最初は、「お金をもらって歌を歌い始めたら、自分の中の何かが駄目になるんじゃないか」とすら思っていましたが、歌ってみたらそんなことはまったく関係ない。
「歌うこと」というのが、周りのどんな環境にも左右されないんだ、ということが分かった瞬間でもありました。
(つづく)
vol.1 祖母の言葉を胸に生きてきた
↑
vol.2 歌っているときだけが、自由だった
↓
vol.3 多くの人に支えられて今がある
事務所に対しては災いも多かったけれど、とはいえ、悪いことばかりだったというわけでもないなと。
結果はどうあれ、歌の楽しさや面白味に気づかせてくれた場所ではありました。
事務所の人たちは興行師というか、音楽のことは分からないので、歌に注文をつけてこなかったんです。だから、歌っている時だけが自由でした。
昔から、祖母に「思っていること全てを言ってはいけない」と言われて育ったこともあり、「歌ならどんなことでも言っていい」というのは新鮮な驚きでした。
それから、事務所が倒産してからはマネージャーがいなくなったので、ライブチケットの値段やギャラ、つまり「自分の歌の値段」を自分でつけることになったんです。
最初は、「お金をもらって歌を歌い始めたら、自分の中の何かが駄目になるんじゃないか」とすら思っていましたが、歌ってみたらそんなことはまったく関係ない。
「歌うこと」というのが、周りのどんな環境にも左右されないんだ、ということが分かった瞬間でもありました。
(つづく)
vol.1 祖母の言葉を胸に生きてきた
↑
vol.2 歌っているときだけが、自由だった
↓
vol.3 多くの人に支えられて今がある
