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62nd:生きづらさを感じる人たち

2021.02.19

前記事で、
「このコラムを通じて時代を切り取っていきたい」と
書いたからには、この話題に触れないわけには
いかないような気がします。

前東京五輪・パラリンピック組織委員会会長の森喜朗氏が
「女性が多い会議は、時間がかかる」と発言し、
その失言が原因となり、退任。
2月18日(木)付けで、橋本聖子氏が、
新会長に就任することとなりました。

正直、この話題についてはあまり触れたくありませんでした。
なぜなら、その発言の全てについて調べきれていないし、
(「コラムを書くためなら調べなさいよ、勉強しなさい!」と
だれかの声が聞こえてきます…。)
世論の熱量と同じ温度で“怒り”を
感じることができていないからです。

折々、ジェンダーを論点とした問題が勃発しますが、
以前もこのコラムでも触れたように、
私自身あまりその違和感や不快感を感じたことがありません。
それは鈍感すぎるともいえますし、
現状に感覚が麻痺されている、
私のような無自覚な人間が、日本が「ジェンダー後進国」である、
根源だと言えるとも思います。

そこに反省点を感じつつも、
私自身がそこに「生きづらさ」を感じていないことは、
事実としてあるわけです。

ここまで書いていることからわかるように、
私はこのジェンダー問題を語る資格がありません。
なので言及したくなかったのですが、
最近、ジェンダーという側面以外でも、
「生きづらい」と感じている人は
世の中に私が想像する以上にたくさんいるのだと、
感じています。

映画の話になりますが、
現在公開中で昨年ど『新聞記者』で
日本アカデミー賞作品賞を受賞した、
藤井道人監督の最新作、
『ヤクザと家族』を鑑賞しました。

この映画は「ヤクザ」にならざるを得なかった人たちの姿から、
家族の在り方について考えさせられる作品です。
「ヤクザ」という反社会的な存在を、
肯定することは到底できませんが、
そうなるしかなかった人たち、
そこから足を洗おうとしても、
過去のレッテルが付きまとい、
前に進むことが出来ない人たち。

その姿はとても痛々しく、
どうにか「救い」を彼らが手にすることはできないものか、
願わざるを得ませんでした。

決して共感できないはずの「ヤクザ」の姿を見て、
そういう感覚に観客である私が陥ったのは、
作品を作り上げた、監督・俳優陣・制作スタッフに
携わってきた方々の手腕なのですが、
現実にもそういった側面はきっとあるのでしょう。

彼らは世の中に「生きづらさ」を感じ、
もがき苦しみ、犯罪に手を染めざるを得ず、
無茶苦茶なことをしながらも「家族」という居場所を、
心から求めていました。

「ヤクザ」というのは、象徴にしかすぎず、
「生きづらさ」の中でもがき苦しみながらも、
家族という愛を追い求め生きていく姿は、
誰しもが心のどこかにリンクする部分を感じさせられるはずだと思います。

また、島本理生さんが原作で、
堤幸彦監督の最新作、映画「ファーストラブ」も鑑賞しました。
この作品の根底にある問題は、
「トラウマ」です。

あまり書くとネタバレになるので、
多くは語れませんが、
前述した「ジェンダー」にまつわるトラウマが、
物語のキーポイントになっています。

そのトラウマを抱えた人たちは
わかりやすく「生きづらさ」を抱えて生きていて、
その痛みは画面を通じてでも、
グサグサと私の心をもえぐってきました。

映画の中の話と、
現実世界で起こっている社会問題を
重ね合わせて、同じレベルで話を進めることは、
あまりにも乱暴かもしれませんが、
「生きづらさ」を感じる人は世の中に思っている以上に、
存在しているのだと、感じさせられる今日このごろです。

私はあまりにも鈍いので、
それを強く感じることなくのほほんと過ごしていますが、
例えば私の立場で考えると、
33歳にもなって結婚もせず、子供もいない、
その現状を揶揄する人も世の中には少なくないでしょうから、
それを指摘される現状を「生きづらい」と、
私でない誰かが同じ状況なら感じるかもしれません。

きっと「生きづらさ」というのは、
どの時代にも横行していて、
今「ジェンダー問題」に声をあげ取り組む人たちがいるように、
一つひとつ解決して、
令和時代までやってきたはずです。

それでもその時代その時代の「生きづらさ」が
次から次へ勃発しています…。
みんながみんな「オールハッピー」を迎えることは、
不可能なのでしょうか。
過去にはどんな「生きづらさ」を、
人生の先輩たちが感じてきたのか、
世代を超えた話を今こそ聞いてみたいな、と、思っています。
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