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| 残間 |
今日はテレビのゴルフ番組に出てくる戸張さんではなくて、 本職のトーナメントプロデューサーとしての、 戸張さんの話を聞きたいと思っています。 普段、何気なく見ているゴルフトーナメントが、 どんな風に作られているかが分かってくると、 また違った角度からゴルフを見られると思うんですよ。 戸張さんにとってプロデュースとは何たるかを、 たっぷりお聞きしたいと思っています。 |
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| 戸張 |
僕は残間里江子さんに、 それとまったく同じ質問をしたいですね。(笑) かなり近いと思うんで。 |
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| 残間 |
(笑)ではお願いします。 慶応のゴルフ部だったんですよね。 戸張さん自身はプロのプレイヤーになろうとは 思わなかったんですか? |
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| 戸張 |
ゴルフは好きでしたけど、 プロになろうとは思わなかったですね。 その頃というのは(1960年代末)、 日本にプロのトーナメントなんてほとんどなかったですし、 会員制のちょっとうるさいコースだと、 プロはクラブハウスに入れなかったんです。 林由郎さんという有名なプロがいらっしゃいますよね。 林さんと遊びでプレーするとします。 それでお昼になってクラブハウスでご飯を食べようとすると、 林さんはついて来ないんですよ。 「行こうよ」と誘っても、「いや俺はいい」とか言って、 プロ部屋で食べてるんです。 そういう時代でしたね。 (willbe注:日本ゴルフツアーが始まったのは1973年から。 林由郎プロは戦前から活躍し、門下からは 青木功やジャンボ尾崎など、数々の有名プロを輩出) |
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| 残間 |
今のプロゴルファーのイメージとは、だいぶ違いますね。 |
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| 戸張 |
ですからプロになってトーナメントに出ようとか、 それで生計を立てようとかは、全く思わなかったですね。 それで住友ゴムという会社に就職しました。 そこはダンロップというブランドで、 タイヤやゴルフ用品を扱ってたんですね。 まだ日本のゴルフ人口が100万人くらい。 今の10分の1くらいですね。 最初は営業をやってたんですが、25歳ぐらいの時から 「併せて販促もやりなさい」ということになりました。 販促って、要するに宣伝じゃないですか。 何回か雑誌に広告載せたりしたんですけど、 何か靴の上から足を掻いている感じがありまして、 何かいい方法はないかと考えたんですね。 それで「ゴルフ用品をもっと売るには、 ゴルファーが増えればいいんじゃないのか」と考えたんです。 単純にね。 |
| 残間 |
(笑)本当にその通りですけれど、そこが難しいんですよ。 |
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| 戸張 |
ではゴルファーを増やすにはどうしたらいいかというと、 当時は日本ツアーというのはなくて、 年間にトーナメントが4つか5つあっただけだったんです。 それでプロが出場するトーナメントを作って、 テレビで全国に中継すれば、 それを見たオジサンやオバサンたちが、 ゴルフをやるようになるんじゃないか、と考えたわけです。 いろいろあったんですが、話を端折りますと、 ダンロップは自分のところでゴルフ用品を売ってますから、 宣伝費を使って「ダンロップトーナメント」をやろう、 テレビで放送しようと。 ゴルフのトーナメントなんて、 どうやっていいか全くわからなかったですが、 とりあえず2日間のトーナメントを作って 大阪の箕面というゴルフ場でやりました。 |
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| 残間 |
その頃プロというのは、日本に何人ぐらいいたんですか。 |
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| 戸張 |
男子で300人強というところでしたでしょうか。 |
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| 残間 |
それなりに資源はあったんですね。 |
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| 戸張 |
ええ、すでにプロテストというのはあったんですが、 そういえば当時のプロにはハンディキャップがありましたね。 |
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| 残間 |
本当に? |
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| 戸張 |
上手いプロはハンディキャップゼロなんですけど、 下手なプロって変な言い方ですけど、 そういうプロにはハンディがありました。 すごい時代ですよね。 とにかく「ダンロップトーナメント」をやって テレビで中継したら、結構、反響があったんですよ。 初めての試みですから、もう手づくりでしたね。 自分たちで杭を打ってロープを張って。 杭を打ってたら、腱鞘炎になりましたけどね。 |
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| 残間 |
へえー。そのトーナメントづくりは 何人くらいでやったんですか。 つまり戸張さん部隊は。 |
| 戸張 |
僕を入れて10人くらいですね。 それで誰も何していいかわからないから、 バイトを雇って、ここらへんにスコアボードを 建てようということになっても、スコアボードって、 どんなものだろう? という調子なんですよ。 |
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| 残間 |
海外ではすでにやってたんですよね。 |
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| 戸張 |
アメリカではバンバンやってましたね。 ちょうどアーノルド・パーマーが出てきて、 アメリカのゴルフトーナメントのイメージを変えて、 "ゲーム"から"スポーツ"に変わった、 みたいな時代でした。 |
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| 残間 |
それまではゲーム的だった? |
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| 戸張 |
そうですね。 テニスで言えば、ボルグやマッケンローが出てきて、 それまでの品のいいストローク・テニスから、 格闘技みたいになったじゃないですか。 ちょうどそんな感じですね。 |
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| 残間 |
「魅せる」という要素ですね。 |
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| 戸張 |
そういう世界を僕らも目指そうと思いました。 それで自分たちが主催してばかりもいられないので、 トーナメント企画というのを、パッケージにして 売りに行こうということになったんです。 こんな風にコースに設営して、プロを集めて、 テレビで二日間放映すると、これだけかかりますと。 でも新聞にもゴルフ雑誌にもスポンサー名が出るし、 テレビもやれば見る人が一気に増えて 宣伝の到達率が上がりますよと。 |
| 残間 |
テレビの放映はどう取り付けるつもりだったんですか? 中継しないと言われたら? |
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| 戸張 |
テレビは後からついて来るんです。 そこは自信がありました。 だってその頃はコンテンツがないんですもん。 当時はコンテンツなんて言葉はなかったけど(笑)。 |
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| 残間 |
プログラムね。 |
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| 戸張 |
スポーツといえば野球と大相撲とプロレスぐらいでしたね。 結局、電通がこのプランに興味を持ってくれて、 日本テレビが開局20周年、それからサントリーは スポーツマーケティングをやりたがっているから、 日本テレビとサントリーで 「サントリーオープン」というのをやったらと。 それでサントリーには僕が説明に行きましたよ。 当時専務だったかな、 今は名誉会長の鳥井道夫さんが話を聞いてくれたんですが、 僕はまだ若かったですし怖かったです。 ギョロッと睨まれて、 細かい事聞かれたらやだなって思ったんですけど、 「まあ、考えとくわ」という感じで。 それから今度は電通と一緒に日本テレビに行きました。 正力亨さんがいらした時代でしたが、 「うちも20周年だし、やってみても面白いな」と言ってもらえて、 サントリーとドッキングして実現したわけです。(1973年) |
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| 残間 |
なるほど。今の日本のゴルフトーナメントに 近い仕組みで出来上がったんですね。 |
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| 戸張 |
そうです。 トーナメントの前にプロアマをやったのも、 サントリーオープンが日本で初めてでした。 アメリカから資料を取り寄せると、 向こうでは芸能人や政治家を呼んで プロアマというのをやっているようだから、 日本テレビにうちらもやりましょうと。 確かジャイアント馬場さん、デストロイヤー、 堺正章さんとか、いろんな方を呼んで派手にやりましたね。 これが日本でプロゴルフトーナメントが盛んになっていく、 ひとつのきっかけになったと思います。 |
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(つづく) |
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