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親子だけの世界では、障がい者を守れない

残間
こんにちは。今日はオフィスに
お邪魔させていただきました。
 
竹中
ようこそ、いらっしゃいました。
 
残間
竹中ナミさんは1991年に
「プロップ・ステーション」という組織を立ち上げて、
主にICTスキルを生かした障がい者の就労支援に
長年取り組んでいらっしゃいます。
東京と神戸に拠点がありますが、
プロップ・ステーションでICTを学んだ障がい者は、
すでに3千人を超えるそうですね。
 
竹中
そうですね。
今も神戸だけで、週に10コースほどの
セミナーを開催しています。
 
残間
個人的にはいろんな場面で
お話をうかがっていますが、
今回はウィルビーメンバーに向けて、
ご自身の言葉で日頃の活動や思いを
語っていただければと思います。
よろしくお願いします。
 
竹中
よろしくお願いします。
 
残間
竹中さん、というか、いつものように
“ナミねぇ”とお呼びしましょうか。
まずはプロップ・ステーションを始めた
きっかけからお話しいただけますか。
もちろん娘さんが障がいを持っていたことが、
大きな理由だと思いますが。
 
竹中
もちろんそうです。
それから娘が障がい児だったこともあって、
周りで重度の障がいの子をたくさん見たんですね。
もうお母さんからしかご飯が食べられない。
この抱っこで、この角度で、
この食べ物しか食べられない、という子たち。
「はぁ~、オカンと障がいのある子どもって、
こんな風に一体になっていくんやわ~」って思いました。

それでそのオカンは幸せそうに見えるんですけど、
最後は私が死ぬ時には、
一緒に連れて死ぬっていう話なんですね。
もうそのつもりで毎日育ててるんです。
 
 
その時に思ったのは、親子という世界だけで
子どもを守っていくのは無理だということ。
子どもを守っていこうと思うと、
その頃は難しいことはわかりませんでしたが、
今で言えば社会化しないといけない。
社会全体で守れるような仕組みを作らないと
無理なんや、ということですね。
 
残間
確かに親は先に死にます。
その後は社会に託さなければなりません。
 
竹中
娘が養護学校に行くようになってからは、
私はその時間、重度の障がい者を預かる
デイサービスのところでボランティアをしてたんです。
ボランティアって言っても、
こういう所のお手伝いをしていたら、
将来、娘も入れてくれるんじゃないかという(笑)、
魂胆ありありだったんですが。

でも、その施設でもお母さんが
子どもを連れて死ぬのをいっぱい見ました。
本当に昔は、そんな話はざらにありましたから。

それまで私は兵庫の山の方で、
村の古いしきたりの中でずっと専業主婦や、
農家の嫁をやりながら子どもの世話をしてたんですね。
でも毎日、町中にある養護施設に娘を送っていって、
ボランティアで働くようになると、
デイサービスだったり、障がい児親子の集いだったりで、
いろんことを目にするわけです。
「親子だけではダメなんだ」ということを、
さらにヒシヒシと感じるようになりました。
 
残間
それがプロップ・ステーションの
萌芽になっていったと。
 
竹中
ええ。
それからある時、
車椅子の全国大会というのが兵庫で開かれまして、
私も手伝うように頼まれたんです。
当時から口だけは達者だったんで(笑)。
それから心臓が強いこと。
この二つだけは絶対に誰にも負けまへん。

それで事務局みたいに人集めしたり、
広報のお手伝いしてたんですね。
その時に出会ったチャレンジド*が、
関西学院大学のOBたちでした。
関学は昔からチャレンジドの入学を
受け入れてたんですが、
彼らが大会のリーダー役をやっていたんです。

すごい子たちがおるなあって思いました。
みんなすっごい優秀なんですよ。
世の中は障がい者=かわいそう、気の毒って言って、
うちの娘みたいに何にもでけへんように言うけど、
ちゃうんやと思いました。
すごい能力の高い子がいっぱいいたんですよ。

能力が高いから障がい者の運動や
催しなんかを開催するんやけど、
じゃあ彼らに稼げる仕事があるのか? 
と言ったらないわけです。
こんな不思議なことがあるんや。
もったいないと思いました。
その子らとちゃんと障がい者のための活動して、
仕事もしようよ、ということになったんですね。
それで「プロップ・ステーション」という、
働くことに特化した組織作ることになったわけです。

就労支援を企業に働きかけようと思ったら
神戸ではダメで、やはり関西だと
企業の決定権のある大阪になるんですが、
ある大阪のボランティア団体が、
事務所に机ひとつ置いてもいいよって言ってくれまして、
それで大阪で始めようということになりました。
 
残間
それはナミねぇが幾つぐらいの時だったんですか?
 
竹中
1990年ですから、もう42ですよ。
普通せんやろ、と思うんだけど(笑)。
自分の頭の中では娘がずっと赤ちゃんだから、
全然自分では年がいってると思わへんのね。
そういえば10月8日で還暦を4つ過ぎたんやけど、
誰のことかいなという感じで(笑)。
 
残間
(笑)とにかく、だんだんと
ムーブメントが出来上がっていって、
その中心にナミねぇがいたわけですね。 
 
竹中
中心っていうわけやないけど・・・
いろんな集まりに私が出るでしょ。
すると不思議なことに、だんだん来る人が減って
二三人になっていたのが、
50人くらい来るようになるんですよ。
 
残間
ナミねぇのキャラクターがあれば、
それは不思議ではないんですけどね。
 
竹中
それで事務局長やってくださいとか祭り上げられて、
「いや、別に私はやりたいわけじゃないんだけど」
と言ってる間に、なんか役所に直談判する時なんかに
先頭に立たされてるわけです。
 
残間
その辺は若いときの経験が
ものを言ってるんじゃないですか。
かなりの“ワル”だったということですが。
 
竹中
本当にワルでした(笑)。
 
残間
それでは、少し若い頃のお話をうかがいましょうか。
 
(つづく)