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ニューヨークでの充電は今も人生の宝物

残間
忙しいところをお越しいただき、
ありがとうございます。
今日はよろしくお願いします。
 
太田
こちらこそ、よろしくお願いします。
 
残間
裕美さんは14歳でスクールメイツに入り、
19歳でデビュー。
ですから歌手のキャリアは、
もう40年近いんですよね。
出産・子育て時にはかなり
仕事はセーブしてたようですが、
今はお二人のお子さんも成人して、
精力的にコンサート活動をなさっています。

ソロだけじゃなく、伊勢正三さん、
大野真澄さんとのユニット「なごみーず」、
因幡晃さんとのジョイントなど、
活動の内容も多彩ですよね。
「なごみーず」は
私も何度かステージを拝見しましたが、
雰囲気がとってもいいです。
裕美さんが男二人の調整役みたいで、
安心感があります。
 
太田
「なごみーず」は自分でも
奇跡的なメンバーだと思います。
みんなとは40年くらい前に出会ってますが、
ずっとそれぞれで仕事をしていたのに、
今になって一緒にやるなんて。
最初は私のコンサートに、
正やんにゲストで出てもらったのが始まりです。
 
残間
そこに大野さんが
無理矢理割り込んだらしいですね。(笑)
本人がそう言ってましたよ。
 
太田
無理矢理というか、
ボーフラのように漂ってきましたね。(笑)
 
 
みんな個性は全然違うんですが、
とにかく三人で歌った時、とても心地よかったんです。
もう足掛け9年になりますが、年に一度でもいいから、
死ぬまでやろうと言い合ってます。
 
残間
『なごみーず』は仕事だけで、
あまりプライベートではつきあいはないのかしら。
 
太田
もう仕事もプライベートもズブズブですね(笑)。
基本的に仕事がないと会う機会がないので、
ライブが途切れると「ご飯でも食べようか」
という感じで集まります。
正やんとは奥さんとの方がつきあいが長いこともあって、
もう家族ぐるみという感じですね。
 
残間
さて、裕美さんのキャリアの中では、
二度のブランク期間があって、それをくぐり抜けて、
今もなお歌ってらっしゃいます。
やはり人生長いですから、
立ち止まったり、振り返ったり、
大切なものをいったんは脇に置いといたり、
そんな時期があると思うんですが、
きっとそれが今の裕美さんにとって、
すごく大きな意味を持っている気がするんですね。
今日はその時期のことを中心に聞かせてください。

まずは1982年のニューヨーク長期滞在。
デビューして8年、「木綿のハンカチーフ」
「赤いハイヒール」などのヒット曲が出て、
27歳の時ですね。
まず、なぜニューヨークだったんでしょう。
 
太田
その2年前に友だちと
初めてニューヨークに行ったんですが、
もう楽しくて楽しくて。
一週間、正味5日ぐらいの滞在でしたが、
寝る間も惜しんで見て回りました。
ミュージカル、ジャズクラブ、街歩き。
地下鉄は24時間動いてるし、
ちょっと危険な雰囲気もありましたが、
またそこが活気の源になっていて、
とにかくエネルギッシュ。
「ここに住めば、私も元気になれるかも」
と思ったんですね。

ちょうど「さらばシベリア鉄道」(作/大瀧詠一)が
出た頃でしたが、社長に掛け合って、
ちょっとずつレギュラーの仕事を整理して、
2年後に行くことができました。
 
残間
旅行に行くのではダメだったんですね。
ニューヨークに住みたいと。
でも反対されたでしょ?
 
太田
ええ。「浮き沈みの激しい芸能界で、
あんまり休むと忘れられちゃうよ。
ひと月ぐらい休んで、行ってきたら」
と言われましたが、そこはゆずりませんでした。
それで半年の学生ビザを取ったんですが、
これは延長すればずっといられますし、
行ってしまえばこっちのもんだと。
 
残間
(笑)引退する気はなかったんですよね。
 
太田
そこは自分でもわからなかったですね。
辞めるかもしれないし、続けるかもしれない。
とにかくリセットしたかった。
 
残間
向こうでは毎日何を?
 
太田
基本は英語の学校。それに加えて歌や
ダンスのレッスンもちょっと受けました。
ブロードウェーのすぐそばのアパートを借りたんですが、
場所柄、そういうレッスンが一杯あるんです。
同じアパートにもダンサーの夫婦が住んでいたり。

毎日がホリディ。楽しい事しかないんです。
何しろ全てが自分の時間でしたから、
本当に貴重な価値ある毎日でしたね。
そんなの初めての経験でしたし。
今でも思います。
もしあの時にニューヨークに行ってなかったら、
人生変わってただろうなあって。
というより、行かなかったらどうなってたか、
想像がつかないですね。
それぐらい私にとっては大きな出来事。
 
残間
8ヶ月ほどいたみたいですけど、
暮らしてみて、何か思うところはありましたか。
 
太田
ブロードウェーだけでなく、
オフブロードウェー、オフオフも観ましたけど、
そこにもものすごい才能を持った人がいるんです。
「この人でもオンには出られないのか」と、
本場の厳しさを知りましたね。
そんな風に本物を数多く見る中で、
「自分は甘かった」ということにも気づきました。
 
残間
元々、どうしても歌手になりたい、
という形でデビューしたわけでもなかったんですよね。
 
太田
スクールメイツに入ったのも、
大好きなジュリーに会えるんじゃないか、
という理由でしたから。
デビューしてからも、
しばらくは「人に見られる」自覚が足りなくて、
髪型も化粧もちっとも構いませんでした。
 
残間
帰国したきっかけは?
 
太田
半年経ったくらいで
マネージャーが様子を見に来まして、
「そろそろいいんじゃない?」と。
半年休んで自分でもやりたい事が出てきたし、
「リセットしたい」ということに関しては、
気が済んだんですね。
やっぱり自分は「歌が好き」、
という事にも気づきました。

それで帰ったら
レコーディングすることになったんですが、
半分はニューヨークでのものを使おうということになり、
曲を用意したり、ジャケットの撮影をしたりで、
その2ヶ月後に日本に帰りました。
 
残間
今の若者も、ニューヨークに限らず、
どんどん外に行けばいいのに。
裕美さんのようにいろんな気づきがあると思いますよ。
 
(つづく)