残間 先日、ソトコトの小黒一三さん、
幻冬舎の見城徹さんと、名編集者お二人に
相次いで会う機会があったんです。
それでウィルビーの資料を見せていたら、
サポーティングメンバーのリストの中に
光安さんの名前を見つけて、
「あ、光安さんの名前がある!」
と、二人とも驚いていましたよ。
会ったのは別々なんですが、
二人とも同じ反応で面白かったです。
それも「えっ、まさか」というのではなくて、
「なるほど、残間らしい」という感じで………。



光安 (笑)私は、他のサポーティングメンバーの
方たちとは、ちょっと毛色が違いますからね。



残間 2年ほど前に川勝平太さん(現静岡県知事)が
静岡文化芸術大学の学長だった時、
是非、大学で経営学を教えて欲しいという
誘いがあったじゃないですか。
実現していたら、銀座のクラブママからの視点という、
面白い経営学講座になっていたと思いますよ。

さて、昨年、銀座のママ業を引退されました。
いろんな出会いや出来事があったと思うんですが、
そもそも銀座で働き始めたきっかけは
何だったのでしょう?



光安 私は九州出身で、早稲田大学に憧れて
受験勉強していたんですが、
現役、一浪目と不合格。
二浪目は東京の予備校で頑張ろうと
上京してきたのが19歳の時でした。
それで銀座で働き始めたのも19歳です。



残間 受験勉強のために上京したはずなのに。



光安 (笑)東京に出てきて、
コンパでお酒を覚えたんです。
ブランデーを初めて飲んだ時、
あまりに美味しくて。
そうするうちに友達の知人のスナックを
手伝うようになり、そこでアルバイトで
銀座で働かないかと誘われたというか、
スカウトされたのがきっかけですね。






残間 九州で受験勉強ばかりしていた浪人生が、
いきなり銀座というのに抵抗はなかったんですか?



光安 当時は"銀座"がどんなところで何なのか、
まったくわかっていなかったですね。
その頃の心境としては、勉強はしているけれど、
来年も落ちるかも知れないという不安がある一方で、
東京に触れて浮かれていたというか、
新しい世界に対する憧れが
混在しているような感じだったと思います。
それから銀座で働くことにしたのは、
段違いにお給料がいいというのも大きかったですね。
最初が、一日で4〜5千円。
一年ぐらいで店を移ったんですけど、
その頃には日給で1万円になっていまして、
若かったですから、そんなにお金が入ると、
こっちに行こう! となってしまいますよね。



残間 あの頃だと大卒の初任給が
3万円ぐらいでしたからね。



光安 最初は夜は銀座で働き、昼は予備校や
下宿先の高校生の家庭教師をやっていたのですが、
さすがに毎晩出かけていたらバレまして、
下宿は追い出されてしまいました。
赤坂にマンションを借りて、
以来、銀座で働くことになったわけです。



残間 もう、その頃から「銀座で生きていこう」という
気持ちだったんでしょうか。



光安 そんな覚悟はなかったです。
長く働く気もありませんでした。
それで、25歳の時に一度辞めたんです。
私はお酒が好きで、お店で働いていましたから、
毎日飲んでしまうんですね。
さすがに「こんな生活は良くない」と思いまして、
引き止められるのを振り切って、
お店を辞めて一月半ぐらいヨーロッパに行きました。
イギリス、フランス、ポルトガル、スペインと、
言葉も喋れないのに、一人でよく行ったと思います。
勉強のためというか、
本当はそのまま外国に住みたかったんですけど。



残間 私たちの世代って、若い頃は
「地平線や水平線の向こうには、
新しい世界がある!」って信じてましたものね。
いろんな人が、シベリア鉄道に乗ったり、
海外を放浪していました。
五木寛之の『青年は荒野をめざす』
『さらばモスクワ愚連隊』とかもありました。






光安 五木寛之さん好きでした! 
早稲田を目指していたのも、
それが大きかったと思います。
もしかしたら、私たちが地平線の先を
「夢見る」最後の世代だったかもしれませんね。
でも結局、外国でやりたいことも見つからず、
お金もなくなるしで、
元の銀座のお店に戻ることになって………



残間 以来、銀座一筋というわけですね。



光安 銀座に戻って26歳の時、ある方から
「一億出すから自分の店を出さないか」という
誘いを受けたんです。



残間 35年前ですね。
私が『女性自身』の記者をやっていた頃ですけど、
当時の1億円ですから、すごい金額ですよね。
それが「グレ」になるわけですね。



光安 ところが、そう簡単にはいかないんです。




(つづく)