▼撮影:岡戸雅樹 ▼デザイン:柳澤篤





三田誠広さんのプロフィール
1948年、大阪生まれ。早稲田大学文学部卒。
1977年、「僕って何」で芥川賞。作品はほかに「いちご同盟」「空海」など。
日本文藝家協会副理事長。日本文藝著作権センター理事長。著作権情報センター理事。
日本点字図書館理事。著作権問題を考える創作者団体協議会議長。

[オフィシャルサイト]
http://www.asahi-net.or.jp/~dp9m-mt/index.htm




残間 最近、堺屋太一さんの半生を描いた本を
お書きになりましたね(『堺屋太一の青春と70年万博』)。
もっとも産業的とも言っていい人物と文学畑の三田さんの
組み合わせというのは、ちょっと意外な印象でした。
どういうきっかけだったんでしょうか。



三田 私にとって堺屋さんというのは、「万博」「油断」「団塊」の人、
という感じで、まあ正直言って"知らない人"でしたね。おそらく最初、
出版社は堺屋さんに自伝を書かせたかったんですが、
ご本人が誰かに書いて欲しいと思ったんじゃないでしょうか。
それで私に話がまわってきたんでしょう。

"知らない人"なんですが、実は堺屋さんは同じ大阪出身で、
私の小学校、中学校の先輩だったんです。互いの実家もけっこう近所でして、
そんなつながりも編集者はわかっていたようです。
それから大阪出身の作家に書かせたかったみたいですね。



残間 では、話が来ても、すぐ書こうという感じでもなかったんですね。



三田 その頃、私は『空海』『日蓮』と歴史小説を書き終えた頃で、
時間はあったんです。それで、いただいた話を無下には出来ないので、
とりあえず一度、出版社の人間と会うことになったんですが、
たまたま堺屋さんのスケジュールが空いていたんで、
ご本人も一緒にということになりました。

知らないとはいえ、私はただの末端の役人が、
どうやって「堺屋太一」になったのかという点には興味があったんですね。
そこをご本人に聞いてみたところ、すごく面白かったんで、
お引き受けすることになったわけです。
結局は、それが第1回目のインタビューになりました。




残間

インタビューはどれぐらいしたんですか?



三田 1回3時間くらいのものを、3年がかりで4回やりました。
私は3回でいけるかなと思ったんですが、堺屋さんが
まだ話し足りなかったらしく(笑)、もう1回ということになりました。



残間 たっぷりお話を聞いてみて、どんな方でしたか?



三田 大阪の、いわゆる商売の街の人ですね。
非常に合理的な発想をされる方です。
彼の人生の興味は、仮説や原理を試すところにあるんだと思います。
葛藤とかはあまりなくて、シンプルというか、
アダム・スミス的な合理主義とでも言いましょうか。

話を聞いて一番驚いたのは、国家事業だと思っていた
「70年万博」が、本当にたった一人の通産省の末端の役人によって
考え出されたという事実ですね。実際に万博をやることが決まると、
事務局とかができて組織が動き出すんですが、
大阪で万博をやろうと思いつき、立案したのは彼一人なんですよ。



残間 70年万博というのは、我々団塊の世代にとっては、
忘れられないイベントのひとつだと思います。
入場者6400万人というのは、とほうもない数ですよね。
万博で初めて外国人を目にしたという声をよく聞きましたし、
洋式トイレやファーストフードなど、多くの人にいろんな"初めて"が
ありました。三田さんは万博は行かれましたか?






三田

2回行きました。学生の時で、最初は今の女房と。
2度目はおばあちゃんを連れていってくれと言われて、祖母と行きました。
月の石を展示していたアメリカ館に行ったら
入場するのに数時間待ちで、あの熱気はすごいと思いましたね。

それで15年後に小学生の息子を連れて筑波の科学博に行ったら、
アメリカ館の前には呼び込みのオジサンがいました。
「今なら並ばずに入れますよ!」という感じで、
アメリカの凋落を感じました(笑)。もう時代が変わっていましたね。
70年万博と違って企業のパビリオンが主体で、
イベントが民間主導になっていました。



残間 先ほど国家事業かと思っていたら、
一人の役人がやっていたという話が出ましたが。



三田 「万博とは」という最初の企画書は、
堺屋さんがガリ版で刷ったものです。
彼はまずそれを官公庁まわりのハイヤーの運転手さんに配るんです。
こういうものがあるんだと。すると運転手さんが乗せたお客さんに
「万博っていうものがあるんですってねえ」という具合に
話題にしてくれることを狙ったんですね。
そうやって広まっていったようです。

さらにすごいことに、この企画書を書くために、
彼は自腹で当時で400万円使っているんですね。
個人が勝手にやっていることで、予算がついてないですから。
でも、それで万博ができちゃった。お金もあったんでしょうが、
そんなことをやれたのは堺屋さんぐらいだと思います。







万博は戦前に、一度東京オリンピックと一緒に
日本で開かれるはずだったんです(1940年)。ところが幻に終わった
東京オリンピックとともに万博も中止になりました。
「太陽の塔」のように万博のモニュメントになるはずだった
「勝鬨橋」は、建設が始まっていたので、そのまま完成したんです。
堺屋さんも、当時の資料を集めたようですね。

やっぱり70年万博以前、日本人は万博がどういうものなのか、
誰もよくわかっていなかったんですね。
それが儲かるものなのか、権威があるものなのかもわからない。
だからデザイナーでも、30代の若手をどんどん起用できた。
結果的にいろんな才能が世に出ましたよね。



残間 確かに堺屋さんは魅力的な人物ですが、
それを三田さんが書くというのが面白いですね。
経済部の記者なんかが書くと、「私の履歴書」みたいになるんでしょうが。
かといって本人が書くとどうしても自慢話に聞こえてしまう。
人に書かせようとした堺屋さんは、その辺りはさすがですね。



三田 本人しか知らない事実がいっぱい出てきますよ。
それから堺屋さんに大きな影響を与えたドイツ人女性との交流などは、
それだけで一冊の本になりそうなくらい興味深いエピソードです。
基本的には「一人の人間が生きる」という事に焦点をあてて書きました。



残間 70年万博が強く印象に残っている世代は、特に面白く読めそうですね。

(続く)