残間 |
最近、アルフィーの坂崎幸之助さんとのユニット
「和幸」(かずこう)でライブやアルバムを発表していますね。
ザ・フォーク・クルセーダースの再結成(2002年)ぐらいから、
プロデューサーなどの仕事に加えて、バンド活動が活発です。
木村カエラさんを加えてのサディスティック・ミカ・バンドの
再結成というのもありました。
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加藤 |
「VITAMIN-Q」というのもあります
(土屋昌巳氏、屋敷豪太氏、ANZA、小原礼氏と)。
ミカバンドの再結成の流れで、趣味で好きなロックがやりたくなって。
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残間 |
今も次々とアルバムを発表していますが、
なかなかCDを売るのも厳しい世の中ですよね。
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加藤 |
20代から下は、もうパッケージされたものというか、
CDは買わないですね。ダウンロードするものであって、
"物"として捉えていない感じです。
でもCDの売り上げは落ちても、その分、ダウンロードが
増えているので、全体としてはあまり変わらないと思いますよ。
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残間 |
CDを手に入れても、いったんデータとして取り込むと、
処分しようとさえしますね。
持っていたくないと思ってる節すらあります。
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加藤 |
消費されていくものとして受け止められているんでしょうが、
まあ、そういう時代なんだなと思ってます。
それにCDが売れないといっても、きちんと作れば40代から上は
側においておきたいと、買ってくれますからね。
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残間 |
ここ5〜6年の活動でいうと、再結成が2つありましたね。
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加藤 |
フォークルの方は北山(北山修氏/ザ・フォーク・クルセーダーズの
オリジナルメンバー、現在は精神科医で精神分析学会会長)が
やりたいと言ったのと、今の切り口でやれないかと思っていたら
坂崎幸之助君が一緒にやってくれることになったので。
ミカバンドもそうですけど、レトロ路線とか、
懐メロだったらやってないですよ。
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残間 |
大学時代に結成したザ・フォーク・クルセーダーズは、
解散記念に自主製作した「帰って来たヨッパライ」がヒットして、
1年限りということでプロデビューしたんですよね。
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加藤 |
大学3年で、北山は医者になるし、
まわりも就職だというので、北山のお父さんからお金を借りて、
解散記念として作りました。200枚ぐらい作ったのかな。
それをラジオ局に「こんなの作りました」と持ってったら、
あれよあれよ、ということになりまして。
それで解散する筈だったんですが、学生運動が激しい頃で
キャンパスはロックアウトされていて、一年間授業を
受けなくても単位をくれるということになったんですね。
それで売れたことだし、これ幸いとプロとして
もう1年やったわけです。
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残間 |
でもあれだけ売れたんですから、
そのまま音楽でやっていこうという風にはならなかったんですか。
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加藤 |
北山は音楽で身を立てる気はなかったですね。
医者になるって決めてましたから。
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残間 |
北山さんと加藤さんって、
フォークルをやっていた時は、どんな関係だったんですか。
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加藤 |
今と同じですよ。全然変わらない。
彼がコンサバティブで、僕がリベラル。
といっても北山のコンサバティブもかなり変なんだけど(笑)。
アイボリー・タワーにあってもね。
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残間 |
振り返ってみて、どんな大学時代でした。京都の学校ですよね。
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加藤 |
龍谷大学です。同級生はお寺の息子たちばかりでね。
インド哲学だとかの授業もありまして、
今考えると、いい時代に大学生活を送れたなって思いますよ。
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残間 |
北山さんは医師の道を選んだわけですが、
加藤さんは自分の将来をどう考えていました?
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加藤 |
小さい頃から会社勤めはしないだろうな、とは感じてましたね。
父は普通の勤め人でしたが、祖父が仏師だったんです。
たまに手伝ったりすると、何かひとつのものを
作り上げていくのは面白いと思いましたよ。
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残間 |
音楽を始めるきっかけは高校の時に聞いた
ボブ・ディランと聞いていますが。
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加藤 |
ボブ・ディランそのものと言うより、
背後にあるボヘミアン的なものに魅かれたんだと思います。
だから吉田拓郎がボブ・ディランを聞いて
音楽にのめり込んだのとは、ちょっと違うと思います。
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残間 |
確かにその後の加藤さんの音楽とは
ちょっとイメージが違いますね。
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加藤 |
中村とうようさんの番組だったかな、
ラジオでボブ・ディランを聞いたらレコードが
欲しくなったんですが、国内盤がなかったんです。
それで銀座のヤマハに注文しました。
当時は航空便がなくて、船便で三ヶ月くらいかかって
取り寄せてくれたんですよ。
それで入荷の連絡を受けて取りに行ったら、
何かの間違いでボブ・ディランのソングブックも
一緒に届いてたんです。ギターのコードがついていて。
じゃあせっかくだから、それももらおうということになって
ギターを弾き出したわけです。
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残間 |
フォークルの解散後はどんなことをしていたんですか。
北山さんと違って、当然ミュージシャンに
なろうと思ったわけですよね。
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加藤 |
でもフォークルが売れたのなんてフロックだと
思ってましたからね。まずは外国に行くことにしました。
幸い、「帰って来たヨッパライ」の印税で小銭もありましたし(笑)。
まずアメリカに三ヶ月、当時は大ヒッピー時代でしたね。
それからヨーロッパ。ロンドン、パリ、ローマと行きましたが、
ロンドンが一番面白かったです。
日本と行ったり来たりしながら、一年の三分の一ぐらいは
ロンドンで過してたと思います。
1970年代で、グラムロックが全盛でした。
こんな音楽がやりたいなあって、思いました。
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残間 |
それがサディスティック・ミカ・バンドにつながっていくんですね。
でも日本の観光旅行が自由化されたのは東京オリンピックがあった
1964年ですから、それからわずか6〜7年の時期ですけど、
単身で外国に行くのは不安はなかったですか?
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加藤 |
いや、全然。僕は今でもそうだけど、
ロンドンにいる方が精神衛生上はいいくらいです。
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残間 |
でもあの頃のロンドンなんて、
日本人はほとんど住んでなかったでしょう?
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加藤 |
結構いましたよ。吉田カバンの吉田君とかは、
ロンドンでの遊び仲間でした。
彼はドイツからロンドンに流れてきて、二年ぐらい住んでたのかな。
何もせずにね。
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残間 |
反パック旅行の走りですね。
加藤さんって、やっぱり先取りしてますよね。
(つづく)
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