▼撮影:佐野敦 ▼デザイン:柳澤篤






藤田一照さんのプロフィール
(ふじた・いっしょう)1954年、愛媛県生まれ。
灘高校から東京大学教育学部教育心理学科を経て、大学院で発達心理学を専攻。
院生時代に座禅に出会い深く傾倒。28歳で博士課程を中退し禅道場に入山、29歳で得度。
33歳で渡米。以来17年半にわたってマサチューセッツ州ヴァレー禅堂で座禅を指導する。
2005年に帰国し、現在、神奈川県葉山の「茅山荘」を中心に座禅の研究、指導にあたっている。
著作に『アメリカ禅堂通信』、訳書に『禅への鍵』『ダルマの実践』『フィーリング・ブッダ』など。




クラブ・ウィルビー(以下cw)


今回、急に残間が「ウィルビーで坐禅をやる」と言い出しまして、
それまで坐禅なんて正直、眼中になかったんですが、
あたふたと坐禅について調べたわけです。
すると、坐禅、あるいは禅とは何か、何のためにやるものなのか? 
という問いに対して、いろんな方がさまざまな言い方をしていますね。
「忘我の境地を得る」「己の中の菩薩を得る」等々、
「言葉では説明できない」としているものもありました。

何でも言語化できるものではありませんが、
せめてその入り口となる表現だけでも、
一照さんの口からお聞きしたいのですが。



一照 やはり「言葉では言えない事、思いでは思えない事をからだで実地にやる」と
いう風になりますね。坐禅は何のためにやるのか、とおっしゃいましたが、
そもそも目的という発想では入っていけないところなんです。






坐禅の外側から坐禅について色々言うことはできます。
こうやって坐るとか、あちこちの本に書いてあるような言葉。
それは間違ってはいないのですが、あくまでも外からなぞった事であって、
坐禅そのものではないんですね。

だから、「そういうものだから、実際にやってください」としか言えない。
川のほとりまでは連れて来れるんですが、
その先、水を飲むのは自分でやってもらうしかないんです。

ただし、川のほとりまで連れて来る案内、ガイドの仕方なんですが、
そこが今までは時代とかけ離れていた気がします。
坐禅は変わっていませんし、川はずっと流れています。
しかし、もっと今の時代に適した道案内が必要だと思います。
伝統的な言い方だと現代人には難解だし、
質問を許さないような頭ごなしなところがありますからね。



cw 坐禅の事を調べた時、文章中に仏教用語が連発されてくると、
正直言ってだんだん意識が遠くなっていくような…



一照 (笑)そう、普通の人はアレルギー反応を起こします。



cw 一照さんは、その案内の仕方をどう工夫されているんでしょう?



一照 やはり分かり易い言葉で、面白く、
みんなの興味や生活につながった表現を心がけていますね。
そこはアメリカで17年半、禅の指導をしてきた経験が
役に立っているかなと思います。文化の背景が違う相手に、
母国語でない言葉で伝えなきゃいけなかったわけですから。



cw 先ほど、何のために坐禅をやるかという「目的」からは、
坐禅そのものには入っていけないという話が出ましたが。
そこをもう少し詳しくお話しいただけますか。



一照 そこを話し出すと長いですよ。




cw

(笑)何とかついて行きたいと思います。

何故、目的ということを言うかというと、
すごく荒っぽくて大雑把ですけど、私のようなビギナー以前の人間にとって
坐禅に対するイメージというのは、瞑想のようなものであって、
かつヨガのような要素もあり、心を穏やかにして、
心身をスッキリさせてくれるもの、そのためにするもの、
という感じだと思うんです。



一照 それは間違いじゃないです。残間さんがこの間、
私のところに訪ねてきましたが、寝不足で坐禅なんかできないから、
私は見学してると言ったんですね。でもせっかく来たんだからもったいないし、
倒れたら運んであげるからと、とにかく坐禅を体験してもらいました。
そうしたら、帰る頃にはすっかり元気になってしまった。(→残間ブログ

そういう効果はあるし否定しません。
ほとんどの人はそこから入るし、私だってそうでした。
坐禅を組んだら少しはマシな人間になれるかなって思って始めたんですから。
だけど、それを坐禅だと思われるのは違うし、もったいないです。
もっと先があるんですから。



cw "おいしい"ところはもっと先にある?



一照 おいしいというより、途方もないことですね。
それは体験しない限り想像も出来ないし、
人間の枠組みでは計れないほどのことなんですが、
私にはそれが起こったんです。
だから、今だにこんなことをやっているわけです。
もし坐禅が私が最初に目的にしていた通りのものだったら、
とっくにやめていると思いますよ。







今度ウィルビーでやる坐禅会にたくさんの応募があったのも、
坐禅の副次的な効用というか利益、仏教では利益(りやく)と読みますが、
そういうものを求めてのことでしょう。そんな風に、
坐禅がいいものだと思ってもらえるのは、悪いことではありません。

でも繰り返しますが、それだけが坐禅だとは思わないで欲しいです。
そんなに薄っぺらいものではありません。
川のほとりまできたら、そこで水を飲んでもらうだけでなく、
できれば川を渡って欲しいんですよ。



cw そこで新しい視野を開いて欲しいと。



一照 水を飲むまでの段階、坐禅をして気持ちがいいとか、
利益を得るというのは、自分にとって利益になるという事ですよね。
この「自分」というのが何かと言えば、小さくて、あたふたしていて、
欲望に追い回されている存在、仏教では「我」(が)と呼ばれるものです。
そして「我」は川で水を飲めば一時的にホッとするでしょうが、
また喉は渇きます。
仏教とは、
「そういう生き方で一生終わっていいんですか?」
という問いかけです。

(続く)