1/21(木)私の目性は?

icon_zamma.jpg1月21日(木)25時06分

風邪は何とか自力で封じ込めたのだが、
先週から左の目に出来ていた、
ものもらいが完治せず、
今日も瞼の中の違和感と闘っている。

今週火曜日に、
「ワイドスクランブル」に出たところ、
「寝不足なのですか?目が腫れてましたね」
とのメールが何通か届いたのだが、
それでも自力で治そうと、
薬局の人が「これなら家でも治せます!」と、
自信を持って勧められた物もらい専用目薬で、
しばし頑張ってはみたのだが、
時間が経つにつれて「お岩ちゃん度」が上がってきたので、
(注・お岩さんについて触れる時は「呼び捨て」はいけないらしい)
遂に一昨日、眼科に行った。

少し前から、今年はそろそろ観念して(?)
パソコン・読書用のメガネを作ろうかなと思っていたので、
ついでに視力検査もして貰うことにした。

私は、分娩時の「事故」で、
(かなりの難産で、鉗子分娩で生まれたのだが、
鉗子が視神経を傷つけたらしく、
今でも左の額と頭の際に傷跡が残っている)
左眼の視力が0.01(厳密には測定不可能)で、
光は見えるが色と形はおぼろげ、
文字は全く見えないという状態なのである。

今日まで右目に頼って生きて来たのだが、
その右目も、アナウンサーだの雑誌記者だのと、
人一倍目を使う職業に就いたせいで酷使の連続となり、
この数年は右目の視力も0.6周辺をウロウロするようになってきた。
おまけに両眼とも乱視がきつく、
さらに左眼は飛蚊症でもあるので、
本を読むと、
何匹もの虫が飛んでいるのである。

私の目が悪いことが解ったのは、
小学校に上がって間もなくの頃だった。
学校で撮ってきた記念写真を見ると、
どの写真も左目をつぶっていたので、
これはおかしいということになり、
母が病院に連れて行って判明したのだった。

母は、自分のせいで、
私の目が悪くなったことを悔やみ、
貧しい生活の中にあっても、
私の視力回復を願って、
あちこちの病院を回って歩いたらしい。
しかし、当時は情報や技術の地域格差が、
今とは比べものにならないくらい大きな時代だったから、
みちのく仙台在住の低所得者層の我が家が、
先端医療の恩恵に浴することは難しかったのである。


私が「おかあさんのせいではないわよ。
事故だと思うしかないじゃないの。
それに、右目がちゃんと見えるのだから、
日常生活には何の不便もないのだし、
生まれた時から目が不自由な人もいるのだから、
私は恵まれていると思うわよ」と、
いくら慰めても、母はなかなか納得せず、
自分を責め続けるのだった。

「岩手医大の病院で角膜移植手術を受けると、
見えるようになるかも知れない」
という情報を入手して以来、
「岩手医大に行きさえすれば........」が、
母の口癖となり、
つい最近まで、目の話になると、
「あの時、盛岡に行っていればねぇ.........」と、
いかにも悲しそうな顔をするのである。
(後年、仕事で岩手医大病院に行った時は、
「ここが母が夢にまでみた病院か」と感無量だった)

母がそんなにも私の目にこだわるのは、
母が無類の読書好きなことと、
(今でも週2~3冊の文庫本を読んでいる。
私が夜、本を読むのを禁じなければならなかったのは、
辛かったのだと思う)
自分の目が良いことに、
気が引けるというのもあるかもしれない。

「あなたも元々の目性はいいのよ。
お父さんの家系は、みんな60歳過ぎには老眼になっていたから、
そう良くはないのだけれど、私の家系は目性がいいみたいで、
私は目の病気にも罹ったことはないし、視力もいいのよ。
あなたは私の目を受け継いでいると思うから、
(ここは勝手に決めているのだ)本当はいい目なのよ。
それが、可哀想に.........」と、なるのであるが、
実際93歳の今でも、新聞を裸眼で読んでいたりするのである。
(老眼鏡は持っているし、細かい字は虫眼鏡で見てもいるが)

.........ということで、
久しぶりに眼科医に行ったのであるが、
今どきの検査機器は凄いもので、
目の淵に出来たものもらいが、
まるで怪物のように拡大されたのにも驚いたが、
マスカラやアイライナーの残滓までが大写しされ、
思わず声を上げそうになった。

ものもらいの診察の後で、
視力検査表と瞳の拡大写真を見ながら、
先生はいかにも気の毒そうに言うのだった。

「視力が確定するのは小学校の3年生ぐらいなので、
その前にしかるべき矯正をしていれば、
あなたの場合も視力回復は出来たかも知れないのですが、
(カルテで私の年齢を確認して)
当時だとそこまで解明されてもいませんでしたし、
技術的にも出来なかったかも知れませんね。
矯正はほとんどの場合、コンタクトレンズでやりますから、
昭和30年代に東京でなら何とかなったかもしれませんが、
地方では無理だったでしょうね」

そうだ、思い出した!
私も昭和34年(1959年)にコンタクトレンズを、
作って貰ったのだった。
日本には未だ無いとのことで(あったのかもしれないが、
一般的ではなかったのだと思う)
ドイツに注文して作ったのである。
ピンクの恭しいケースに入ったコンタクトレンズは、
当時のお金で片目4500円。
米10キロが870円、かけそば35円、封切り映画が150円の時代に、
明日のお米さえない、
「赤貧洗うが如し」の我が家の生活の中で、
どれほど大変な出費だったか。
もしかしたら矯正をさせようと思って、
やってくれたことなのか。
今聞いたところで、
もはや母は覚えてはいないだろう。

我が家にとって、
大金をはたいて購入したということは、
幼心ながら覚えているのだが、
残念ながらこのコンタクトは私には合わなかったのである。
右を向けばレンズは左に、左を向けば右に、
上を向けば下に、下を向けば上に寄るという具合で、
そのうち装着すると目が充血して痛み出すようになり、
とうとう諦めてしまったのである。

サイズを測って注文しても、
相手は遠いドイツなのだし、
今とは通信手段も違うのだから、
どれだけ綿密な作業工程だったのかも判らない。
何しろ世の中にはまだ出回っていないのだから、
(宮城県ではまだ数人しか持っていなかった)
医療関係者すら扱い方もよく解らなかったのである。
おまけに分厚く堅いガラス片のようで、
目に入れると思っただけで恐怖感を覚える代物なのである。

「そのコンタクトが矯正用だったのかどうかは解りませんが、
今の技術なら間違いなく、半分は視力が取り戻せたでしょうね。
それでも、これだけ強い近視なのに、
いまだに左の眼球が外側に飛び出しもせず、
左右対称であることの方が珍しいですよ。
元々の目性がいいんでしょうね」

さて、このことを母に告げたほうがいいのか、
言わないままにしていたほうがいいのか、
迷うところだ。

母のことだから、
「あの時東京にいさえすればなぇ.........」と嘆きながらも、
「でも、私の目性が良かったから、
目が飛び出したりしないで済んでいるのよ」と、
威張るに決まっているのだから。

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コメント(3)

残間さん、中山さん、ご無沙汰しております。残間さんとは昨年暮れに青山の某店でバッタリ!お話中にお声をかけて大変失礼を致しました。残間さんがそんなに目が悪かったとは今日のブログを読んではじめて知りました。私も裸眼で両眼とも0.01~0.02なので他人事とは思えません。幸い私は、矯正視力が0.7位になるので日常生活に支障はありませんが、裸眼だと障害者手帳をもらえるレベルです。旅行には必ずスペア眼鏡を持っていきますし、お風呂にも眼鏡をかけたまま入ります。目のよい人がうらやましい限りです。
昨日、新年会に出席したメンバーの方とお話しする機会があり、その感激した様子に無理にでも都合をつけて出席すれば良かったと後悔すること仕切り。鮫島さんとも高校卒業以来はじめて再会することも出来たはずでしたし、残念でした。

こんばんは。今回の「目半生記」ですがわが母と状況が酷似していて驚くやら親近感がむくむくとわきあがってきました。勝手に盛り上がってます!母の場合は片目は失明しています。しかしあろうことか機織りが仕事。周囲はいまだ母が片目失明とは知らないらしい…。人生不思議ですね。適職って何でしょ。おまけに岩手医大は地元。母が織った着物、早く来て見せなくてはと思いました。ありがとうございます。

その頃、オイラは「デメキン」と呼ばれていた。
正確には、呼ばれていたというより、からかわれていた。
「デメキンって何?」
図鑑で調べると、それは異様に眼が飛び出ている金魚の一種だった。
母の手鏡を使って自分の横顔を見てみた。

思春期に入り、何かと母と親子ゲンカになった。
原因は容姿だけでなく、色々あったのだろうが、
最後の捨てゼリフはいつもこうだった。
「生んでくれなきゃよかったのに」と。
母は何も言い返してはこなかった。
その時、母がどんな顔をしていたかは覚えていない。
自分のイラダチで悶々としているオイラに、
母親の顔を窺う余裕などあるはずもなかった。

高学年になり、クラス委員をしている関係からか、
誰も「デメキン」と、面と向かって呼んだりしなくなったが、写真嫌いになっていった。
従ってオイラの若い頃の写真は極端に少ない。
どうしても写らなければならない集合写真の時は、
できるだけ後ろの隅の方に立ち、
「ハイ写します」の合図と同時に、
前の人の頭に自分の顔を重ねた。

今思う。
母に何てひどいことを言っていたんだろうと。
あの頃にはもう戻れないが、
「言葉」を聴いた母の気持ちは推測できる。
どうしてあげることも出来ないものは、
どうすることも出来ないのである。
今なら、言わない。
絶対言わない。

「生んでくれてありがとう」
仏壇の前でそっと伝えた。

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「テーブルウェア・フェスティバル2012」、東京ドームのアリーナ会場を見渡す。

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加藤タキさんの作品「新旧共生の間」

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故郷・大阪をテーマにした萬田久子さんの作品。

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3時間ほど煮込んだ蕗。

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白菜漬けと糠漬け。

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1月24日(火)

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裏面。



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プロフィール

残間 里江子【プロデューサー】

1950年仙台市生まれ。アナウンサー、編集者などを経て、企画制作会社を設立。 プロデューサーとして出版、映像、文化イベントなどを多数手がける。著書多数。