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障害者が普通に暮らせる街づくりを。 1/3

浅野史郎さん(神奈川大学特別招聘教授)

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1993年から2005年まで、宮城県知事を3期12年務めた浅野史郎さん。その後、東京都知事選に立候補。5年前にはATLと呼ばれる特殊な白血病を発症するも見事に復活するなど、山あり谷ありのこれまでの人生ですが、その転機となったのは厚生省時代の「障害福祉」との出会いでした。その出会いは、今では浅野さんのライフワークとなっています。(残間)
(聞き手/残間里江子  撮影/岡戸雅樹 構成/髙橋和昭)
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vol.1 障害福祉の問題は社会全体につながっている


残間
最近、個人的に“転機”というものに興味があるんですが、浅野さんの転機といえば、やはり5年前にATL(ウィルス性の特殊な白血病)になったことでしょうか。

浅野
いいえ、闘病生活は、割と淡々としたものでしたね。還暦過ぎてからでしたから、人生観が変わるとかもありませんし。これが30代、40代だったら話は違うでしょうけど。
さあ闘うぞと腹を決めたら、もう最高の患者になろうと思いました。医者を心から信頼するしかないですから。

残間
そういえば担当のお医者さんや看護師さんの名前を、フルネームで覚えていましたね。それぐらいは当然だろうと。

浅野
もともと厚生省で役人をやっていたわけですが、役人というのは、2年ぐらいでどんどん部署が変わるんですよ。次に何をやらされるかわからない。
それで私の役人時代のモットーは、「足下(そっか)に泉あり」。

どこへ行こうとも、足下の地面をコツコツと掘っていけば、甘い水が湧いてくるというわけです。もっとも行った先で頑張っていれば、上司に認められて、次はもっといい部署とか、出世ができるかなというスケベ心もありましたが(笑)。
とにかく与えられた環境で、黙々とやれることをやると。

残間
闘病もまた然りというわけですね。お元気になって本当に良かったです。

浅野
それより私にとっての転機は、やはり厚生省時代に出向先の北海道庁で福祉課長をやったことですね(1985年)。ここで私のライフワークである「障害福祉」に出会いました。

残間
そういえば、後に浅野さんが政治家を目指したのも、自分のやりたい福祉を実現させる、という側面もあったわけですよね。

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浅野
北海道で初めて障害福祉に関わってわかったんですが、障害福祉というのは、「人間とは何か、社会とは何か」ということを、突き詰めて考えられる仕事なんですよ。
そこにあまりピンと来てない人は、障害福祉というのは、哀れで可哀想な障害者に、何かしてあげる仕事と考えてるんですね。

残間
役所の仕事だと、そういうものだと思われがちです。

浅野
それはそれで大事なんですが、私にしてみれば、それは正確ではなくて………。

障害福祉の仕事とは何かというと、障害を持った人が幸せに暮らしていけるように支援したり、その基盤を作るということでしょ? ところが最初の北海道でもそうだったし、今も感じてるんですが、それが必ずしも守られてないんですよ。行政がそうだし、社会もそう。

40年以上前のことですが、脳性マヒの我が子を、介護に疲れた母親が絞殺するという事件がありました。
ところが裁判では情状酌量で、実刑にならなかったんですね。世間も介護で大変だったんだから、しょうがないと。報道もそんなムードでした。

脳性マヒの方の支援団体に「青い芝の会」というのがあるんですが、この団体が判決に異を唱えたんですね。それはおかしいと。
「殺された側はどうなるんだ? 俺たちは生まれちゃいけなかった存在なのか? 介護者に殺されてもしょうがないのか?」

確かにその通りなんです。おかしいんです。
「青い芝の会」というのは、当時は行動派の障害者団体でして、川崎で「俺たちをバスに乗せろ!」という運動もしていました。昔は車椅子障害者は、路線バスに乗車を拒否されてたんですね。
それでバスジャックしたり過激な行動も取るんですが、一方で理屈もしっかりしていました。

とにかく親が大変だったからといって、子ども殺すなんてとんでもないことなんですよ。大事なのは、障害者本人なんです。

残間
もっともな話です。

浅野
私が道庁の福祉課にいた当時、知的障害のある人は養護学校を卒業した後、受け入れてくれる施設がとても少なかったです。それで受け入れてくれる施設が見つかると、親はホッとするわけです。これで安心して死ねると。
ですから、その時の私の仕事のかなりの部分は、陳情の対応でした。
どうぞ、この北海道に施設をつくってくださいと。それを厚生省に持って行って、補助金をつけてもらうというのが、仕事の半分を占めてましたね。

でも、「これが俺の仕事なのか?」という疑問が湧いてきたんですね。違うんじゃないかと。そういう施設をつくって、本当に障害者はハッピーなのか。
当時の北海道だと、知的障害のある人が施設に入ると、死ぬまでそこにいるんですよ。それを障害者自身の言葉なんですが、「無期懲役」と言ってました。

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残間
うーん………

浅野
罪もないのに入れられて、そこから出る手段がない。死ぬまでいるんですよ。そこで死ぬ。それは障害者が望んでいることなのか。
 
彼らが望んでいるのは、普通の場所で、普通に暮らしたいということ。そんな簡単なことが実現できないなんて、おかしいでしょ?
こっちは行政官として、プロとしてやってるわけです。これは実現しないといけないと思いましたね。それは、すごくやりがいのあることでした。

残間
障害者が街なかで健常者と一緒に暮らせるようにというのは、浅野さん、昔から言ってましたよね。

浅野
実は、僕はその時まで、障害者のことは何にも知りませんでした。知らなかったら、誰かに聞けばいいんですが、誰に聞くかといえば、障害者本人ですよね。というか、本人がいる所。
彼らは何を望んでいるのか。
それで幾つも施設を回って情報のシャワーを浴びました。
するとやっぱり、そういう結論になるんですよ。

残間
でも、そうは思わない役人はいるでしょ。予算をつけて施設をつくって万々歳と。これが役人の仕事だと。
それに施設に行っていろんな話を聞いたといいますが、障害者は上手く要望を言語化できないかもしれません。普通は、そばにいる親の「施設を作ってください」という声に耳を傾けてしまうんじゃないですか。

浅野
そうかもしれませんが、私はすぐに気がつきました。それは親のエゴだと。親を責めるわけじゃないですけど。
また、親がそうなるのもわかるんです。当時は障害福祉に関しては、地域は資源ゼロみたいな状況でしたから。
親はいつか死ぬ。ならば施設に入れないと、というのは無理もないことなんです。
だとすると、「地域」を豊かな場所にするしかない。まず、これが私のミッションだと思いました。ただ、北海道では、これに気づいたところで2年の任期が終わってしまったんです。

ところが本庁にもどってしばらく待機期間があった後、人事課長から(児童家庭局)障害福祉課長をやってくれという人事異動の内示がありました。神様はいるのだと思いましたね。




vol.1 障害福祉の問題は社会全体につながっている

vol.2 障害福祉課長時代の珠玉の1年9ヶ月

vol.3 障害者が街に慣れる、街が障害者に慣れる






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