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ささやかな幸せを届けたい‥‥ 1/5

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坂野尚子(ばんのなおこ)さんは、フジテレビアナウンサーを経てアメリカでMBAを取得し、日本で起業。現在、経営するネイルサロン『ネイルクイック』『スパネイル』は全国70店舗に及び、今やニューヨークにも1店舗、積極的な海外展開も視野に入れています。そのバイタリティには、いつも敬服するばかり!(残間)
坂野尚子さんのプロフィールはこちら
(聞き手/残間里江子 撮影/岡戸雅樹 構成/髙橋和昭)


vol.1 とにかく社長になりたかった


残間
今日はよろしくお願いします。 現在、クラブ・ウィルビーでは、坂野さんの経営するネイルサロン『ネイルクイック』とコラボレーション中ですが、起業にいたった経緯、そして経営者としての思いなどを伺わせてもらえればと思います。

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Nail Quick×club willbe『大人の指先きらり・プロジェクト』

坂野
こちらこそ、よろしくお願いします。

残間
坂野さんは1980年にフジテレビにアナウンサーとして採用され、87年に退社した後にコロンビア大学でMBAを取得。その後、96年に『ネイルクイック』の事業を始められました。
私たちが出会ったのは、フジテレビのアナウンサー時代ですよね。坂野さんが85年に、特派員としてニューヨークに行く前のことです。

坂野
朝の番組の1コーナーでしたね。確か10分くらいの『フレッシュレモン』という名前。日替わりでコメンテーターの方が登場して、その日のニュースを素材に私がお話を伺うというものでした。

残間
あのスタイルは当時は珍しかったですよね。コメンテーターという呼び名もまだなかったですし。

坂野
「有識者に聞く」みたいな感じでしたね。 月曜日の担当が残間さんで、火曜日がミッキー安川さん、水曜日が屋山太郎さん、木曜日が長谷川慶太郎さんで、金曜日が田原総一朗さんという、錚々たる顔ぶれでした。1年間ぐらいやったと思います。

残間さんはまだ30代だったんですけど、すごいなと思いましたよ。毎朝、朝刊を読んで、「今日はこれで行きますから」と言って、生放送で淀みなく喋ってましたから。

残間
では早速、起業までの道のりを伺いたいと思いますが、そもそもは特派員としてニューヨークに行ったのが始まりのようですね。アナウンサーだった坂野さんが、どうしてニューヨークに?

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坂野
「行きたい!」って自分で手をあげたんです。1985年ですね。初代の特派員が城ヶ崎祐子さんで、私は3代目になります。
ニューヨークには25歳の時にプライベートで行って、街の活気にすっかり魅了されました。ここに住みたいって思って、それで手をあげたんです。

残間
ニューヨーク特派員というのは、どんな仕事だったんですか?

坂野
基本は現地のニュースを日本に送ったり、現地から中継をしたりですね。報道だけでなく、『夜のヒットスタジオ・デラックス』の中継もやりましたし、バラエティなどもありました。
それ以外に現地の日本語放送のキャスターを週替わりでやってました。ディレクターはほとんどいないも同然で、自分で原稿を書いたり、自分で企画して編集して放送するというのを、初めてやらせてもらいました。それがすごく楽しかったですね。

残間
で、フジテレビを退社して留学するんですよね。

坂野
ニューヨークでやりたいことを全部やらせいただいて、もうフジテレビではやることはないかな、と思ったのがひとつ。
それから自分でディレクションする方が、アナウンサーとして使われているより自分に合ってると思ったんですね。自分で何でも決めて行く仕事。要するに私は社長がいいなと。何の社長をやるかは全然決まっていいませんでしたけど(笑)、とにかく社長になりたいと思いました。

私はアナウンサーしかやってきませんでしたので、そのためにはビジネスの勉強をしないといけない。それでアメリカにはビジネススクールというのがありまして、けっこう友達が行ってたんですね。
私は大学は心理学専攻でしたし、自分にはものすごく縁遠い存在だったので無理かもしれない。でももう30だし、勉強する最後のチャンスだと思ったんです。
それでチャレンジすることにしました。

ニューヨークはチャレンジする人を応援する街


残間
でも日本で勉強することだってできたわけですよね。やっぱりニューヨークで勉強したかった?

坂野
理由は二つあって、まずニューヨークって、年齢に関係なく一から何かを始める人を応援する街なんですね。日本だと20代の女性はこうしなくちゃいけないとか、40代の男性はこうあるべきだというのがあるんですが、ニューヨークはパーティに行っても20代から70代まで、一緒になってパアーッとやってるんですよ。年齢の違う者同士がファーストネームで呼び合っって。
何というか、幾つになってもやりたいことがやれる街だと思ってました。

それからビジネススクールって、今は日本にもいろいろあります。一橋だとか早稲田とか。でも当時はアメリカの方が先を行ってましたし、どうしてもアメリカでMBA(経営学修士)が取りたかったんです。

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残間
その頃は、日本でMBAなんて言葉すら知られていませんでしたよね。

坂野
ええ。それもアナウンサーとMBAなんて全く縁がなかったですよね。だからフジテレビの先輩にこの話をしたら、「お前、大学院(ビジネススクール)に行って学者にでもなるのか?」とか、「やっぱりニューヨークに男でもいるの?」って言われましたから。
私もMBAって、ニューヨークに行って初めて知りました。

残間
いったん帰国してフジテレビを辞めて、再び渡米したわけですね。

坂野
1987年の3月に帰国して、8ヶ月間は大学院の受験勉強です。TOEFLやGMATの点数を1点でも10点でも上げようと必死でした。幸い、その年の暮れにニューヨークのコロンビア大学のビジネススクールから入学許可が届き、そこから一年5ヶ月かけてMBAを取得しました。

でも、勉強は大変でした。アナウンサーになって7年間、机にずっと座ってるような生活じゃなかったんですからね。まず落ち着いて分厚い本を読もうとしても、集中力が続かないんです。
それから英語。先生のおっしゃっていることはわかっても、生徒同士のディベートになると全然わからない。
三つ目は、勉強の内容がチンプンカンプン。経営学とか経済学とか。一番得意だったのは、統計学でしたね。大学で心理学を勉強していた時に似たようなものがあったので。あとは本当に苦労しました。
もう三重苦だと思いましたもの。30過ぎで行きましたし。

残間
女性が30歳過ぎてからアメリカの大学院に行くなんて、当時としてはすごいことですよね。

坂野
今は結構いるんですよ。私の後にフジテレビでも3人くらいいます。

残間
でも、とにかく社長をやろうとしたというのが個性的ですよね。ベンチャーという言葉も起業という言葉もなかった時代ですから。

坂野
何でもいいから社長になりたかったです。当時は高級ベビーシッターやろうかなとか、いろいろ考えてはいたんですが。

残間
三木谷さんとかが起業するはるか前ですね。

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坂野
アメリカにいたからですよ。アメリカで本屋さんに行くと、「スタートアップの仕方」とか「小さな会社を作る方法」とか、そういう本がいっぱいあったんです。それからアントレプレナーシップとか。それで私は、普通の主婦が2億円のクッキーの会社を作りましたとか、そういう女の人がやれそうなところからスタートするのがいいなと思ったんですね。
でも何をやったらいいかは全然わかりませんでした。

残間
普通の女性だったらアメリカの本屋に行っても、ガーデニングの本か何かに目が行くんじゃないですか。元々、坂野さんには何か資質があったのでしょうね。

坂野
父は50歳で起業しましたけど、やっぱりさっき言ったように、私はディレクションされるより、自分で何かを決めて実行する方が好きなんですね。
アナウンサー時代に、あまり要領の良くないディレクターが3分の番組作るのに、20分のテープを10本回すとかやってると嫌になっちゃって。自分でやりたいと思うことが結構あったんです、生意気だったから(笑)。それからですね。

できない上司に使われると大変じゃないですか。やっぱりできる上司に自分がなりたいと、思っちゃった感じですよね。

(つづく)

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vol.1 とにかく社長になりたかった

vol.2 消費者目線のネイルサロンが作りたかった

vol.3 安全・安心でなければビジネスは長続きしない

vol.4 ダイバーシティで人手不足を乗り切る

vol.5 シニアや男性にもネイルケアの喜びを

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