残間 6月から始まる天野さんと
クラブ・ウィルビーの共同企画「隠居大学」ですが、
人気が高くて、かなりのハイペースで申込みがきています。
(※事務局注:5/20時点で完売となりました)
今日はこの「隠居大学」についてもお聞きしたいんですが、
せっかく天野さんに来ていただいたので、
広告のお話もさせていただければと思っています。
よろしくお願いします。



天野 よろしくお願いします。



残間 昨年、30年続けてきた雑誌『広告批評』に
終止符を打ちましたね。
あらためて休刊の理由を聞かせてもらえますか。



天野 いろいろ理由はあるんですが、『広告批評』というのは、
テレビCMの全盛期と共に歩いてきたところがあるんですよ。
1975年にテレビの広告扱い高が新聞を抜いて、
媒体別で1位になりました。
『広告批評』はその4年後の1979年に創刊しています。
つまり、その頃にテレビを頂点に広告界が再構成されたんです。
それまでは新聞という活字メディアが王座を占めていて、
あとは「それ以外」だったのがひっくり返って、
活字時代からテレビ時代へという大きな転換があったんですね。



残間 テレビコマーシャルというのが浸透したのは、
80年代なんですね。



天野 それ以前からあったんですが、
テレビCMが圧倒的な力を持つようになったのは80年代ですね。
『広告批評』はその時に生まれて、一緒に走ってきたんですよ。

それでテレビっていうのは、放っておくと
暴力的なメディアになる側面があるじゃないですか。
新聞だったら選択的に広告を読めるけど、
テレビCMは選択性がない。
向こうから強引にどんどん入ってきてしまう。






それが暴力にならないためには、どうすればいいかというと、
広告の"品質"をチェックするしかないんですよ。
広告の規制法とかいうものもあるけれど、あれはザルでね、
くぐり抜ける方法はいくらでもある。
一番怖いのは質の悪いコマーシャルがどんどん増えて、
がなりたてること。暴力になってしまう。
それでそのチェックする機能というのが、
当時どこにもなかったんですね。
『広告批評』はそれをやろうというのが、
ひとつの大きなテーマでした。

ところが90年代の後半からウェブサイトが力をつけてきます。
ウェブ広告がどんどん増えてきて、
もう新聞を抜いてしまいましたね。



残間 テレビも時間の問題だと思います。
今の勢いが続くと、2013年に広告媒体として
ウェブがテレビを抜くと言われていますね。



天野 それでウェブ広告というのは、
それまでのテレビ広告とは違ったメソッドの上に
乗っかっているし、与える影響の仕方も全然違っているわけです。
ということは、それを批評するには、
まったく違うモノサシが必要になってくるんです。



残間 なるほど。



天野 まあ、違うモノサシを用意して
頑張ってやるのもいいんですけど、30年も続けて
くたびれたしね(笑)、一生を広告に捧げてもしょうがないし、
この辺で幕の引き時かな、と思ったわけです。



残間 とは言っても、作品としての広告はお好きでしょ? 
広告は一般に時代を映す鏡とも言われていますし…………。



天野 ええ。テレビだけでなく新聞広告も好きですし、
雑誌広告も好きですよ。ラジオコマーシャルも面白いし。
社会的影響力が圧倒的だったのがテレビコマーシャルでしたから、
『広告批評』のチェック機能の中心はテレビにありましたけど、
広告全般が良くなきゃ、とは思っていました。



残間 ウェブ広告を批評するには、
テレビとは違うモノサシが必要とおっしゃいましたけど、
それはどんなものなんでしょう。
最近は動画なんかもありますが、
基本は今まで通り映像と文字ですよね。
さほど影響力に違いがあるようにも思えないんですが。






天野 それが、影響力がなさそうで、
一番強くなるんじゃないかと僕は思っているんですよ。



残間 ないのに強い?



天野 それは無意識レベルで働き掛ける部分が強いから。
いわゆる「広告」というのは、
ある程度こちらも身構えられるでしょ。



残間 今、自分は「広告を見ている」と意識してるし、
内容を疑ったりしますね。



天野 そう。記事と広告のあいだには一線があったんですね。
新聞が一番はっきりしていて、記事面と広告面が分かれています。



残間 新聞社内部でもいい意味での対立構造がありますね。
編集VS広告という感じで。テレビもそうで、
営業と編成と制作があって、せめぎ合っていますよ。



天野 「はい、コマーシャルです!」という感じで、
はっきりとした形で広告が始まるわけです。

もともと広告というのは、
ジャーナリズムのひとつという側面があって、
本来は芸術表現だとか作品とかいうものではありません。
でも記事や番組と明確に切り離されている分、
広告だけを机の上に並べて、
作品として評価することも可能なわけです。
今年の新聞広告の代表作はこんなところだなあと、
一点一点批評できますよね。
このコピーがどうだとか、デザインがどうだとか。

ところがウェブ広告というのは、それができない。
全く作品性を持ってないんです。
あの、バナーをクリックすると何か出てくるのは別ですよ。
ああいうものはあまり意味はない。

いちばん強力なのは、記事なんだか広告なんだか、
その辺の境界がわからないもの。
むしろ広告じゃないものの方が、
広告的に機能しちゃっうんですね。

例えば僕、アマゾンでCDや本を買う時、どうしようかな、
これ買おうかなって迷った時、
下の方に載っている一般の人のレビューを見るんです。
☆が一つとか五つとかあるでしょ。
レビュー自体はたいしたことは言ってないんですが、
あれの一番☆の多い褒めてるやつと、
一番貶してるやつを外して見てみるんです。
体操の得点に似てるんですけど(笑)、
一番評価の高いものと一番低いものは、
えこひいきか悪意の場合があるから切り捨てる。

それで残りのレビューを読んでみると、
あれは専門家の批評じゃないけれど、
一般の人がああだこうだと世間話的に
そのCDや本について言っている声が聞こえてくるんですよ。
それで今は、僕に限らず一般の受け手というのは、
そういうのを読む能力に習熟しているでしょ? 
褒めてるけど、この褒め方はちょっとおかしいなとか。
ここで貶しているのは、なかなかいい事言ってるかも……とか。
その辺を適当に自分で読み替えて、
その本なりDVDなりの評価を見定めて、
買う買わないを判断する。






残間 確かにそういうこと、あります。



天野 その時に僕にとっては、あの一般の人たちの
レビューが広告になっているわけですよ。
この場合は広告と批評の境界線が、完全に崩れてきている。



残間 なるほど。それは今、本やCDに限らず、
レストランやショップもそうですね。
ページのまわりにあるバナー広告というのは、
うるさいだけという感じがしますよね。実際、見ないし。



天野 あれを今までの新聞広告に代わるものと考えるのは、
違うと思いますね。あれは僕も見ません。
むしろ、ユニクロが『ユニクロック』というのを作ってますけど、
あれは誰でも自分のブログに貼り付けたり、
デスクトップに置けるわけです。
別にユニクロの宣伝をしているわけじゃないけれど、
『ユニクロック』をつけることがお洒落になってたりします。



残間 そうなんです。うちの事務局のセジマのパソコンにもついてます。
「これなに?」というと、「これがいいんですよ」とか言って。



天野 そういうレベルでの影響もあると思いますね。
だけど、バナーをクリックした先に、
きれいな写真にコピーをつけて
新聞広告の亜流みたいなものを載っけても、
あまり意味もないと思います。

ただ、みんなわかんないんですよね。
広告というのは、ああいうもんだと、何十年も思いこんできてるから、
ああしないと広告にならないと思ってるのね。
それでアマゾンみたいに、
批評とか評判が最良の広告になってしまったら、
昔ながらの広告はいらないという事になってくる。



残間 うーん、でもそろそろ気がつきませんかね。
天野さんがこんな風に言うと、
みんな気がつくと思いますよ。



天野 広告が広告でなくなったんですよ。
従来言っていた広告は、広告ではなくなってきた。
今までとは全く違う形で広告が動き始めているんですね。
広告の歴史から言えば、今はすごい転換期なんですよ。
だから『広告批評』が幕を下ろすには
ピッタリだったということもあるんです。



残間 今までの視点が通用しないわけですね。



天野 ウェブ広告を今までのコピーライターや
アートディレクターの技術の面から評価しようとしても、
評価のしようがないんです。




(つづく)